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【チベッタン・ヒーリング:梅野泉】No9_覚醒の心、煩悩の心。そのありように触れてみよう。ガチガチ?ふわふわ?冷たい?温かい?

心を語るとき、私たちは心を漠然としたものとしてしか捉えていません。
自分の心というものについて、「ハッキリとした認識」を持たないまま生きています。
ところが、五大元素の考え方を理解すると、心のありようというものがよく見えるようになるのです。見える、と言っても、実体のない「空性」として見えてくるのです。
そのように見えたとしても、心はコトバでは表現できない領域に属します。
それでも、チベットには、心を何とか表現しようとした大変高度な文化が存在します。

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五大元素が完全なバランスのなかにあるとき、心は覚醒している状態にあります。
そのときもとより備わっている「心の本然」が現れ出でて、これを仏教では「仏性」の目覚め、という言い方をします。この心をチベット語では「セム二」と呼び、通常の概念的な心「セム」と区別します。

私たちは悟ってはいないので、通常、心にはいろいろな考えが浮かび煩悩とともにあり、五大元素は乱れているのです。
煩悩は五毒とも呼ばれ、五大元素の乱れ方によって、煩悩の現れ方に変化があります。たとえば、火の元素が極端に強まると、怒りの爆発、となって現れます。五毒を完全に浄化すると、「心の本然」がたちあらわれてくるのですが、「心の本然」を悟ること、そこに留まり続けることこそが、修行のエッセンスなのです。

ところで、このセムとセム二の2つで考えられる心が全く別のものか、というと、そうではなく、チベットの伝統では、氷と海の水の喩を使って、実は同じものだ、と説いているのです!

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つい先日も、チベットの高僧から、水と氷の関係の喩で「意識」と「智慧」についての法話を拝聴したばかりでしたが、ここでは、心に特定してお話ししましょう。
さて、氷は、もともとは水です。本質は同じでありながら、外的条件によって変容し、見た目が違うものになるだけなのです。
氷を煩悩の心(セム)に喩え、海の水を心の本然(セム二)に喩えます。
氷は喩えていうならエゴの塊でしょうか?エゴがあるから、煩悩が生まれるのです。
海の水はエゴが完全に溶けきった広々とした心の喩え。
私たちの心は、いまは氷であると見えているかもしれないけれど、本来は水である、と。
水が氷で覆われていて、水にタッチできない。
しかし、氷は慈悲のぬくもりで溶け、大いなる智慧とひとつになり、慈悲と智慧が不二であるもともとの「心の本然」へと帰っていく、と言えばいいでしょうか・・・・
慈悲と智慧がひとつである境地、そこからまったく離れることがないこと、このことはとても重要で五大元素の考え方の、あるいは仏教、ボン教いずれもの見解の根幹を成すもので、さらには、仏教やボン教という概念をも超えてゆくものです。
これは、二元的なものの見方を超えてこそ訪れてくる世界です。
五大元素に触れ、五大元素と戯れ、わたしたちはどこへ行こうとしているのか?
これは大いなる冒険、精神の大いなる冒険です。
かつてシッダルータと呼ばれた一人の人間がなしえた冒険、
その後も、インドの聖者、チベットの聖者、偉大な学僧たちが一生をかけて探求した道でした。道は確かにあるのです。仏陀がそこを歩み、それを示し、同じように歩む者たちがいたのです。
実在の2500年前の仏陀以前にも、その道はあったのです。
五大元素の考え方は、さらに古くより光の道として存在していたと直観します。
二元論に閉じ込められた人間という存在を超えてゆくこと。
私たちは何者として生きて行こうとしているのでしょうか
「死」という「生の変容」を目にしたとき、あるいは自ら体験したとき、
いのちとは何なのか?は突出した疑問となるでしょう。
水をイマジネーションの源泉として、さらなる冒険をつづけましょう!
次回は、イマジネーションが世界を説きあかす、という実例をティック・ナット・ハンの文章から見ていきます。

(文責は梅野泉)PexelsによるPixabayからの画像

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