地湧社『湧』<blog magazine>

地湧社の読み物、情報を発信するWebマガジン

【チベット:永沢哲】No4_自然なプロセスに内在する智慧 ~自分を使いきって死ぬ~

 これから超高齢化社会になっていくわけですが、あと三年もたつと日本は世界一の高齢化社会になると言われています。福祉の制度開題が議論されていて、社会的な選択としてそれはやっていったほうがいいんだけれども、いくら制度を整えても追いつかない問題というのがある。議論の盲点になっている部分があると思うのです。

f:id:jiyusha:20190614213935j:plain

 それは、生まれてきてから死ぬまでの流れを考えると、老いや死のところだけを切り離して見ることはできない。過去にどういう生活をしてきたか、何を選択してきたかという結果として、その人の老い方、死に方があるのではないか。そう考えたとき全体を見るビジョンが必要になってくるでしょう。人間はどうやつて生まれてどうやって老いていくことができるのかということです。

 そこを野口晴哉はどう考えたかというと、人間は自分が生きられるだけ生きて、自分の力を使いかつて、もうあまり残っているものはないという状態で死ねばいいと考えていました。慈悲も愛も智慧も美も、すべて自分の中にある。そうやって自分の中に内蔵されているポテンシャルを解放しきって生き、そして死ぬ。生きることも死ぬこともふくめて「全生」するという考え方です。そのうえで野口壻哉は死を迎えるノウハウというものを蓄積していました。

 東洋医学の伝統には脈診というものがありますが、チベット医学では脈診をして死の脈が出てくると、もう治療はせず死を迎える準備を始めます。野口晴哉が死の徴候というものをどのように見ていたかというと、人は亡くなる数か月前から、骨盤が開き始めます。ふつう僕らの骨盤というのはそれぞれ固有の開閉のサイクルを持っていて、月の満ち欠けのようにそれを繰り返しているんだけど、それが開きっぱなしになってくると、いくら生の方へ引き戻す努力をしても無駄であると。そういう状態になったら、やるべきことが変わってきて、生きている間に行動したり緊張したりするような方向に使われるエネルギーというものを解放していくことが必要になります。

 宗教との接点で見ると、人が亡くなる前後に起こってくるカタストロフィツクな変化というものにどうつきあうか、それから亡くなったあとに、ちょっと途中で名残を惜しんでいる人とどうつきあうかとか、そういうことも含めて野口晴哉は考えていました。

 生から死へ振り子が傾いていくときに何が起こってくるかということについて、本当は僕らは知っでいるし、どう見るかという方法もあるのに、そこが現代医学から落ちています。近代が覆い隠してきた死の問題について、最近混乱した考えも含めていろいろ出てきていますが、そうした中で野口晴哉の考え方は透徹した非常に深いものです。

 また野口晴哉は病気について、現れているものそれ自体にはあまり意味がない。むしろそれぞれが持っている波とか自然というものがあって、流れの変化がどういう形でもって外の環境との出会いのなかで表現されてくるかが大事だと考えていた。そうすると病気を恐れる必要はないということになっていく。

 高齢化社会の問題を考えるときも、制度というものを考えることとは別に、一人称でどう生きていくか、自分の内側から出てくるものをどうやって実現していくかということを考えていく。しかも自分の中から出てくるものというのは宇宙全体の運動やクオというものから離れることはないわけです。野口螫体はそういう意味でも非常に大事な視点を持っていると思います。

(月刊「湧」1997年3月号再掲Jose Antonio AlbaによるPixabayからの画像

最初はこちら

www.jiyusha.net