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【チベット:永沢哲】No1_自然なプロセスに内在する智慧 ~生命にきっちり依拠できれば他には何もいらない~

チベット仏教が伝承する覚醒の道を説いた『ソクチェンの教え』(ナムカイーノルブ著)の訳者、永沢哲さんがチベット仏教に出会ったのは、実は野口瓏似氏が創始した野口整体からのつながりであったということです。近況をかねてその辺りのお話を伺っていたら、永沢さんの中を貫く一筋の流れが見えてきました。

 

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生命にきっちり依拠できれば他には何もいらない

 現在の僕のテーマは「自然」ということです。人間の中に本来最初からあるもの、それはクオと呼んでもいいんだけど、もともとある自然から離れないで生きていくこと、その中に智慧があるわけです。サンスクリット語でプラジュナと言いますか。日本語では自然智という言葉があります。
 仏教というのは基本的に無我を説いていますが。仏教で言う我執というのは近代的な心理学が考えている範囲のエゴとか自我をはるかに超えているものを指しています。今の心理学が考えている潜在意識も無意識も全部含んでいる。それに対する執着を解き放つことか仏教の修行の意味です。そのためには無意識のものがはっきり意識化される必要が出てくるわけです。フロイトがあざやかに示したように、無意識には意識によって抑え込まれた感情や記憶のエネルギーがストックされていて。それがずっと人に影響を及ぼしつづけています。それを執着という言葉で仏教は考えてきた。そこから解放されるとともにナチュラルな智慧が発現してくる。
 僕は仏教をとても広く考えていて、釈迦牟尼仏陀が説いた教えももちろん仏教だし、それ以降発展した大乗仏教も密教も法華経も仏教だと思うけど、さらにもっと広いものだととらえています。智慧というか、たえず運動している叡知のマトリックスみたいなものかあって、それが時代のあり方によって表現の形が変わって現われてくるだけではないか。仏教と呼ばれているかどうかは問題ではないと思っているのです。
 僕はチベット仏教の勉強を始める前に、野口整体をやっていました。たまたまユングの勉強会で知り合った人に紹介されて、おもしろそうだからとやってみたら、すっかりはまってしまった。やっているうちに、自分の体験していることかどういうことなのか、どうしてもわからないことがいろいろ出てきて調べていたとこ
ろ、それをいちばんよく説明できるものがチベット仏教のゾクチェンだったのです。ベースになるのは同じ心の状態ですか、チベット仏教はそれを扱っていくうえでのぶあつい方法の蓄積をもっています。
 野口晴哉という人を僕は非常にえらい人だと思っています。ある種の天使性を持っていた人だと。野口整体は形としては整体という名前がついているけど、これも僕にとっては仏教で、ナチュラルな智慧、自然智の方向からのアプローチだと思います。
 野口晴哉がそういう仕事を本格的に始めようと思ったきっかけは関東大震災でした。近代的な装備といったものが全部崩壊していったときに何か残るかというと、生物、生命としての人間です。そこにきっちり依拠することができれば他はいらない。そういうことを最初から考えていた人です。関東大震災の体験から出発してほぼ五十年以上にわたって、そのスタンスは変わりませんでした。戦時中はファシズムに抵抗したし、戦後になってからはGHQに抵抗した。
 何がそれを可能にしたかというと。彼の中の自然智、これを野口晴哉は天心と呼んでいますが、それに対する無条件の信頼だったと思います。僕らにとっていまそれがとても大事になっていて、ようやく時代が野囗晴哉に追いつくようになっだのではないか。近代的な装備や医学を否定する必要は全然ないんだけども、それがどこまで人間を幸せにするか。というかどこまで使えるものであるかということが問われてきている時代になっていると思うのです。
(月刊「湧」1997年3月号再掲 )Sasin TipchaiによるPixabayからの画像

 

【続】

 心の解放につながる身体の動き

 身体構造の違いは発想の違いにも現れる

自分を使いきって死ぬ

植物昏睡状態の人とのコミュニケーション

コミュニケーションのプロセス