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【コウ】スピリチュアルと知性主義_14

去年の今頃にインドを訪れてから早一年。この間もヨーロッパに行ったり短期間で日本に戻ったりしていましたが、大部分はインドに滞在していた1年間でした。この期間、私はヒンズー教の修行をしているという体裁になっています。そもそも、元キリスト教徒の日本人である私が、ヒンズー教の「修行」に惹かれたのは何故か?これをまとめてみると、ヒンズー教の修行の6つの特徴のためだと言えます。

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修行と体験を重視

私は自分自身をヒンズー教の信者だと見なしていません。そもそも、ヒンズー教、特にヴェーダ哲学やヨガ哲学を下地にした修行は、一般的な意味での信仰を必要としません。聖典や教会などの権威はなく、「正しい」教えの解釈というものもありません。たとえウパニシャッドやバガヴァッド・ギータなどの聖典の内容でも、盲目的に信じず、自分自身の体験を通して実証することが強調されます。また、聖典の教えの形式も、修行、自らの体験を通して理解したときに、はじめて理解されるように書かれています。無神論というわけではありませんが、これは禅仏教に近いかもしれません。

道の多様性

ヒンズー教の道は多様です。信仰よりも体験を重視すると上に書きましたが、シヴァ神やクリシュナ神といった人間の形をとった多様な神々もおり、他の宗教が神を信仰するのと同じように神を崇めるヒンズー教の信者もたくさんいます。インドでは「バクティ」と呼ばれる宗教の道です。この道はキリスト教に近いイメージで、神への愛と畏敬を中心とします。他にも哲学的な思索を中心とした「ニャーナ」、行為を中心とした「カルマ」などの道があり、個人の気質に合うように道が選ばれます。瞑想や呼吸法の修行を通して意識の変革をする「ヨガ」もその道の一つです。いくつかの道を組み合わせるのが一般的です。

個人主義

ヒンズー教の道は驚くほどに個人主義です。仏教僧のように寺に属すよりも、放浪の行者として過ごすのがヒンズー教の修行では一般的です。この人々はサドゥーと呼ばれます。放浪の身というのは自由であり、自由というのは規律の乱れも生み出します。残念ながら、サドゥーの大半は大麻を吸っていたり、正常の意識ではない場合がほとんどです。しかし、少数の本物の行者たちは社会や寺から離れて、山や森の孤独の中で修行を突き詰めます。この少数の優れた修行者がヒンズー教の歴史では各世紀に現れて、時代の要求に応えられる教えや修行法を人々に残してきました。

これらの卓越した修行者たちは、どこかの寺に属するわけでもなく(属している場合も少数あり)、自分の体験をもとにして人々に教えを説きます。もちろんバガヴァッド・ギータやウパニシャッドという共通の聖典を用いますが、他の宗教の教えにも精通しており、聖書やコーランなどに言及もします。イメージとしては、ヒンズー教は雑多な材料が詰まった冷蔵庫で、これらの卓越した修行者たちはシェフです。どの材料を使って何を作るかはシェフに全て任されています。これはユダヤ教のラビのシステムに少し似ています。

長くなりましたので、残りの3つの特徴は次回の記事で書くことにします。

 

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