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【コウ】スピリチュアルと知性主義_13

リベラルアーツ大学で西洋流の批判的思考、論理的思考を学び、西洋哲学を専攻した私がインドの智慧に見出したものは何だったのか?それはサルトルやハイデガーなどの西洋の実存主義哲学、また現象学が目指していた世界の、完成した姿だったと言えるでしょう。つまり、私たち人間という現存在(生きて死ぬ、限定された時間と身体を持つ存在)の意識を中心に、知識の方法が展開されていく「ヒト」の考え方です。これと対比されるのが、外側の世界に基軸を置いた「モノ」の考え方です。

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外側の世界を基軸にした「モノ」の考え方は、この世界に関するたくさんのことを説明してきました。物理学や生物学などの自然科学から、経済学や心理学といった社会科学、そして人類学や哲学も含めた人文科学、全て科学と名のつく知識の探求方法は、おおむね「モノ」の考えの上に成り立っています。中世から急速に発達していった知識の方法は、文明の発展の基礎となり、今の私たちが生きる世界を作り上げました。この知識が人類に果たした貢献は、決して過小評価をできないものです。

しかし、この「モノ」の考え方では決して到達できない領域があります。それが人間という現存在の意識です。おおまかな言葉を使えば「生」とも言えます。なぜ「モノ」の考え方では到達ができないのか?それは「モノ」の考え方が概念に依るもので、人間の意識は概念では捉えることができないからです。事象を要素分解して、因果関係の図式で結び、区別するために付けられる名前が概念です。この概念が可能となるためには、世界のどの場所においても時間は均等であり、どの時間においても空間(物質)は均質であるという前提が必要です。基本的な条件として、事象の方程式(理論)において、時間と空間の置き換えが可能でなければなりません。このために何百年前に起こったことでも、事象の構成要素が同じであれば、ある一定の法則が当てはまると言えるのです。こうして全世界また全時代を通して、科学の知識は共通のものだとされています。

以上の仮定が当てはまる対象の場合は「モノ」の考え方を適用できますが、対象が人間という現存在、私たちの意識の場合はどうでしょう?生きていればわかるように、一人の人間の意識と別の人間の意識では、時間も空間も異なるものです。時間の長さもそれぞれの人、それぞれの瞬間によって異なり、意識の空間も全く均質でなく、置き換えができません。AさんとBさんという二人の人間は、時間的にも空間的にも全く違う意識を生きています。ここでは概念は意味を成しません。このために「モノ」の考え方を人間の意識に適用しても、たしかな知識は得られないのです。これが認知哲学や心理学、精神医学、ひいては全ての人間的な意味と解釈を基礎とする学問の躓きの石です。しかし同時に、この石の裏にはポストモダニズムが助長してしまった極端な相対主義、意味や解釈への不信頼(内田樹の書評)を、乗り越えられる手がかりも隠れています。それが私たちの意識、この生を理解するための「ヒト」の考え方です。

この「ヒト」の考え方は、現代の西洋が「身体性」や「存在論的転回」などの言葉を通して近づき始めた一方、東洋では何千年も前から体系的に記されてきました。バガヴァッド・ギータやウパニシャッドなどのインドの聖典はもちろん、禅仏教などの日本の伝統のなかにも確かに「ヒト」の考え方が見出されます。宗教の色を帯びた枠組みにおいて伝えられてきた東洋の伝統でしたが、西洋の文明と科学が「ヒト」の考え方の価値を見直しはじめて以来、今日の世界では徐々に宗教色なしにも理解されるようになってきました。

これだけは本を読めば理解できることですが、なぜ私はわざわざインドに行き、そして今もインドにいるのでしょうか?聖者たちの本を読んでいるだけでは十分ではなかったのか?そこには「ヒト」の考え方の性質として、知識が実践と切っても切り離せない関係にあることが理由の一つとしてあります。徐々にこのことを明かしていければと思います。

(文責と画像はコウによる)

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