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【コウ】スピリチュアルと知性主義_10

リベラルアーツ大学での学びはたしかに知性を鋭く、その働きを旺盛にしました。しかし、確固とした信条があってはじめて、知性は真価を発揮します。前提を疑い、構造を露わにする知性はいかようにも使える道具にしか過ぎず、信条が脆ければ、旺盛な知性は持ち主にとって最大の敵となり得ます。なぜなら、他人の信条はおろか、自分自身の信条さえも知性の刃の前では信じることができなくなるからです。リベラリズム、マルクス主義、フェミニズム、精神分析学派。私たちの生きる現実を説明、形成しようとする理論や信条は無数にありますが、全ての前提の前提までも疑えてしまうとき、これらは実体のない言葉と化して、ただ現実を上滑りするものとなってしまいます。

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これはいわゆる虚無主義や無神論とも異なります。これらも1つの主義、信条であることには変わりはありません。知性の鋭さの前には虚無主義や無神論が与える確信もなく、ただ、批判と懐疑の落ち着きのない動きがあるだけです。当時の私はあらゆる信条や確信から遠く、ただ過剰な知性の働きに途方に暮れていました。中立的な知識の蓄積、どちらにも偏らない理解と批判の方法は得たものの、何が自分にとっての真実であるのかは未だに私にはわかりませんでした。広い地図が私には与えられていましたが、そこから右に進むも左に進むも、全ては同じことのように思えてしまいました。

大学の休暇中にニューヨークやバンクーバーといった大都市へ出かけると、空に向けてそびえ立つ高層ビル群を前にして、学生の私は自分の小ささと無力さを感じたものでした。一方には無数の人々から成る巨大な経済、世界の現実が確かに存在しており、他方には、自分でさえ信じることのできない言葉や考えを足にして、私という個人が立っていました。大きな数や建物というのは人間を小さくするものです。そして、生命の大海の果てしない大きさは人間の知性の器には有り余るものです。理路整然とした理論では説明のつかない対立や矛盾が、外の世界にも、自分の中にも溢れています。第一の山が現実なのだ、この山を登ることだけが残された選択肢なのだと、私は自らに諭すしかありませんでした。こうして私は大学を卒業してアメリカの投資会社で働くこととなりました。

それでも資本主義の権化とされるような世界で働くことには抵抗感はありました。アメリカのリベラルアーツ大学では既得権益の再生産、そこから生じる暴力や不正義を疑い、批判することが知性の徳とされていました。そのため、ほとんどの学生が何かしらの形での体制批判の姿勢を持っていたものです。私もこのうちの一人として、今とは違う世界、世の中に何かしらの変化をもたらす貢献をしたいと思ってはいました。しかし、大学の学びを通して、ただの批判を超えた、建設的、生産的な信条は自分の中には見つかりませんでした。鍛えられた知性にとって批判は習慣となります。この批判の指し示す方向は、たとえ批判対象が不正義や暴力を再生産する体制であるからといって、無条件に従われるべきものではありません。どのような信条、意図から批判が生まれているかが問題なのです。自分の批判の行為の底に、私は確かなものを見つけるけることができなかったのでした。

もちろん、たとえ投資会社の会社員の身となってからも、構造の中心に自分がいる罪悪感と共に、資本主義に対する問題意識は常に私の頭の片隅にありました。学問の道を見限ったとはいえど、やはり知識、理解を求める意欲が相変わらず私の中に生きていました。学生時代にマルクスやその他の左翼派と呼ばれる哲学者を熱心に勉強したことから、私の尊敬した知識人たちが問題とした資本主義の実態を、実体験を通して知りたいと私は思っていたのでした。私が自分の選択を合理化しようとしていたことは疑いようがありません。しかし、今日のどのような知的な議論においても、経済的不平等、富の再分配の問題が語られないことはないほどに、経済的要因が現代の人間であることの根幹を成すようになっているのは揺るぎない事実です。経済とは、お金とはなにか。資本主義の何が本当に問題なのか。大学時代に没頭した哲学や文学から、私の問いは物質主義的な世界の方に向かっていきました。

(文責及び画像はコウによる)

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