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【湧】人間の自然能力No14

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竹居   野口先生の言葉で言うと、感受性と感覚とは別。感覚は肉感的なものであ、感受性は生命的なものであり、気の世界のものである。自分の感覚で動かないで、自分の感受性で勣いていく、ということですね。
 感受性が高まるというのはどういうことかと申しますと、自分の中で粒子が小さくなって、無限に小さくなって、見えないものになった時、それが感受性が高まっているということです。それは、識別の世界ではない世界でのきめ細やかさであり、緻密さです。雑な人、粗い人にはわからないですし、意識してはできないのです。けれど、先はども言いましたように、足を見るということだけでできるのですよ。
家村  竹居先生のワークショップで、両耳が見えるというのと、両耳で聞くというのがありました。どうしても見えない部分があったら、そこを指で触ってくださいと言われて触ったのです。触ったら、確かに耳があるように思うのですけれど、見えていない、聞こえていない方の耳を触った時には、それは耳を感じているのではなくて。触っている指を感じているのだということでした。
 よく主体、客体って言いますけど、先生のワークを受けていると、自分が考えてみなかったところに自分の感覚があるということを発見します。
竹居  耳が両方見える人は少ないですね。片方の耳が見えないという方が多いんですよ。今、目をつよって、両方見えますか。永沢さんは、こちらの耳はよく見えますね。この見える耳を私の指が触ってみますよ。そうすると私の指ではなく耳を感じますよね。ところが、反対側の耳のこの部分は、見えてなくて黒く闇に沈んだ感じですね。そこを触ると耳ではなく私の指を感じるでしょう。

永沢  ああ、そうですね。

竹居  それを、黒いな、闇だなと思っていると、ほら。見えてきたでしょう。そうしてもう一度触ってみますと、今度は指ではなく……。
永沢  ああ、耳を感じます。気持ちいいですね。
竹居  目をつぶってみて見えない耳。触ってみて耳ではなく指を感じる耳は、その耳で聞いていないということです。それが、両耳ちゃんと出てきて耳を感じる状態になったら、まるっきり見えている景色が変わります。
今村  ワークをやった時、僕は最初右耳が聞こえなかったんです。それが、右耳も聞こえるようになった途端。音がすっと体を通ってくるんですよ。そして、それまで音というのは、この自分に跳ね返るような感じだったんだということも、その時にわかったんです。
竹居  それが、音を迎え入れたということなんです。その時の違いを、感受性の違いと言うんです。感覚ではないのですね。いつも感覚の世界で生きていると、それは識別以外の何ものでもないわけです。識別で骨董なんて選べませんね。
 ですから、すべての事の基本、人間が人間らしく機能して勣くため、自分のやりたいという意欲でもって動いて、それが人のためにもなるというような、そういう生命の間の助け合いの動きができるためには、気が満ちて風が通り抜けていくような状態でなければなりません。気は風ですからね。
 それが、どこかに塊、非常に識別的なこの世的な、肉感的な。欲の塊とか、見
栄の塊とか、そういう塊があると、風はそこを通らないわけです。そうすると、
迎え入れがなかなかできないということなのです。
 環境に適応するという事がありますよね。例えば嫌だと思う相手がいたとすると、嫌だなと思って避けようとします。あるいは嫌な人に会って、体のどこかが縮んでしまうとか、寒気がするとか、鳥肌が立つとかありますよね。その状態はだれでもあって当たり前なんですけれど、その時にもその相手から何かがインプットされますね。
 そうしますと、生命体というのは、嫌なものを嫌だなと拒否しないで淡々として迎え入れる事ができると。インプットされた事に対して、自分が反応して新しい状態、新しいものになっていくわけです。例えば自分を粒子だとすると、別の粒子が入ってきて核反応を起こして違う粒子の状態になるということです。これは瞬間的に行われる生命の変化なのです。
そして、その入ってきたものに対して、自分というものが出てくる。これを成長と呼ぶわけですよ。常に自分以外の他者を受け入れる、迎え入れることによって、どんどん成長するのです。これは子どもも動物もみなやっていることです。
 それを、自然を克服しようとか、避けようとか、もっと居心地よくしようというのは、それに敵対して押し返しているということです。そうではなく、それを迎え入れさえすれば、もっとどんどん成長していくのが、本来の生命なんてすね。それは適応ではありません。慣れて適応するのは、これも危ない。だめになっていくことなんです。慣れないのを迎え入れて初めてそれに対応できるというのか成長です。
 それは于をかければできる。だからワークが必要なんです。ワークを一緒にやって、【こういうことな’のか】というのを重ねていくうちに、自然にやれるようになるわけです。そして成長するのに一番手っ取り早いのは、受胎なのです。それは本能的にやりますからね。
 うちの糘が家でお産をしまして、私は実際に産まれるまでじっと見ていたんです。だんだん頭が見えて出てきた時、妊婦はある興奮状態になります。それは肉感的なものですね。もうすぐ出るというのでいきむわけです。それは早く出したいと思っていきむのです。それは自分の思惑であって、赤ちゃんが出てくるということが主体ではないですね。それは迎え入れていないから、会陰が切れるし赤ちゃんも苦しい思いをします。そうではなくて、赤ちゃんがどういうふうに出るか。赤ちゃんのことを考えてやってみる
ということです。これは、人生で一番迎え入れということがはっきりわかる時なんです。
 ところがそれは音で変化できるんですよ。音で変化できるということは、つまり宇宙の中の波というものに音が関与していますから、高いトーンの声でいきんでいると、どんどん体は縮んでしまいます。その声のトーンをあるところまで下げてみると、ふぁっと広がってくる。それで自分の体の中の波が変わるんです。そしてその波に乗って、潮が満ちたり引いたりするように、赤ちゃんが二回転半して出てくるわけです。二回転半すると、臍の緒などもきれいにほどけて出てきます。
 恐らく、その回転というのは、北半球と南半球で違うと思うのです。それも満ち潮と引き潮でまた違うでしょう。宇宙のリズムで回転が違いますからね。
 それに逆らってしまうと気分が悪いわけです。逆撫でと言いますでしょ。それは、宇宙の波に合っていなくて逆に回転しているということです。感受性か粗いのです。それが細やかになってくれば、意識しなくても逆撫でできない体になるんです。

(1997年11,12月号「湧」再掲)