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【湧】人間の自然能力No13

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永沢  今の左右型にしても、野口先生の本を読んでいるだけだと、下手すると分類している感じに読めてしまいます。体癖を受容したうえで、それに支配されるのではないようなことができるようになることなんだろうと思うのですけれど、なかなかそういうふうには受け取れにくいような、誤解が一般にあるような感じがするのですが……。

竹居  体癖は、腰椎のどれが運動焦点かで五つに、その裏表で10種類に分かれています。その焦点の使い方を違えることで体に異常が出ることはありますが、基本になる運動焦点は}生変わりません。ですから体癖を超えるというのは、焦点が変わるということではなく、それによって生じる癖がなくなるということなのです。癖がなくなるということは迎え入れですよ。最後に全部が迎え入れられれば、自分が癖に適応するのではなくて新しく自分を創造していくことができる。それが成長です。そういう限りない成長を続けていけば人間の達人、自然になるのです。その時には。微妙に食い違って
いた宇宙の気と水のリズムがピタツと合う。それはどんなに体が悪い状態でも一瞬無に成れば、その瞬間は合うのです。
 ですから全部が消える瞬間というのは宇宙の波長が全部合っている、一体になれる。それが、何かの癖でどこかが狂いやすいということがある、どうしてもそうなるという人は、例えば左右の強い人は食を断ったら、何かがわかる。
 それがいろいろな体癖の人が自分の癖を超えることができて、心よく、生き生きとやりたいことをやって生きられれば、ものすごい世界の調和がおとずれて。恐らく戦争などの問題にまで影響してくると思いますね。最終的には非常に宗教的だと思います。

 

永沢  野口先生は、究極的には体はないのだと言っています。そういう時の体は、本当にない状態になっていて、先はどの塊としての肉体空間という対抗関係の中で考えられるような身体の感覚はないということだと思います。亡くなる直前に書かれた「我は去るなり」という本の中で、先生は。無の活用法”という表現をされていますが、僕らが空間と考えているものの中に、同時に運動性か内蔵されていて、それは波動として現れてきます。無である空間から、たえず純粋状態の子不ルギーがあふれ出てくる。そういう身体の状態というものがあって、同時にその時に天心が実現されているという形になっているのかなと思うのですが。

竹居  そうですね。違う甘葉で言うと、天心というのは、ものすごい瞬発的な集中力というようなものに関わっていると思うのです。

 赤ちゃんが生まれてくる時は、それはもう全身全霊で生まれてくるわけです。そしてそういう時の集中が、妊婦に伝わつてくる。それを迎え入れれば、出てらっしゃいと産道を広げることができるのです。ところが自分の肉体的な感覚の世界でしか感じ取れない人は、逆に締めてしまう。それでお産は重くなるのです。それは迎え入れができてなくて、自分の痛いという感覚、非常にエゴイスティックな肉感的な感覚で動いてるわけです。それがふっと枠が外れると、迎え入れが体にインプットされ、それがいつもでき
るような状態でいて、これ以上緩められないという位緩めて赤ちゃんか楽に出てくるのです。

(1997年11,12月号「湧」再掲)