『湧』<blog magazine> nishitakesi

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【湧】人間の自然能力_No6

社会の通念や価値観、知識や情報によってがんじがらめになり、自然な自分を取り戻すことによってしか、人間の再生、地球の再生はあり得ない。

 「人間の自然能力」と題し、特に体に焦点を当てて考えてみました。既成の概念に最も左右されがちな意識から解放された体と、直に向き合うことの体験をご紹介していきます。

〈出席者〉竹居昌子 永沢哲 今村有策 家村佳代子 増田正雄本誌

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竹居  体がこの世にある間というのは、かりそめの宿という感じがします。
 ただ、かりそめの宿の体にも気がないところはいっぱいあるわけでしょ。それは半分死んでいると私たちは言います。足が死んでしまって、地についていない人が多いわけです。本当に足が地に付いている実感かおりますか? 本当に自分の足が生えて来て、地に付いたという状態がそこに実現すると、あっ、立っているんだという実感がわく、そういう実感を一つずつ増やしていって自分の体にインプットしていくと、自分の気が抜けたらすぐ気づくんですよ。気が抜けるというのは、気が去るで、腐るとか汚れるという言葉の語源につながっていますから、生きていながら腐っている人がいっぱいいるということですよ。けれど、死んで肉体がなくなったら、その問題はないですからね。そうすると直にその人に触れるというか、その人の気に触れる。肉体は現身のいろいろな煩悩の殼を被っていますから、この世では、違う形をして出ていると思いますよ。
 さっきの今村さんのお話で、建築を場としてとらえた時、どういうものを作ったらよいかというのがありましたよね。そこでは人間が主体になるわけでしょう。
そうしたら、最も住みにくい家を作った方が良いと私は思います。生命にとって苛酷な。こんな家に住めるかというくらいの家を作ったら、人間は発達していきます。成長していきますよ。
 それを、人に優しいとか環境を優しくしようと言って作るから、人間の実体というものが見失われてきてしまったんだと思います。実体がなくたって生きていられる環境にいるということですよ。ですから、実体かなければ生きていられないような家を建てた方が、私はずっと文化的だと思いますね。
増田  以前、二万個のトマトを作る人の話を聞いたことがあるのです。その人は。生命というのは、妨害物を除けば無限に伸びる、生命のすばらしさがこれで証明できる。教育だってそうだと言われたのです。ところが最後に私が「そのトマトは、種はできますか?」と質問をすると、「できない。実はそこだけが問題なんです」という答えでした。その時、土の中に妨害しているものがいるから、過大な成長が抑えられて、種もできて味もうまくなるのではないかと考えました。良い環境、悪い環境というけれど、人間にとって都合の悪いものは取り除かなければという考え方がいつも気になってい
るのです。(「湧」1997年11月号 再掲)Khusen RustamovによるPixabayからの画像

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