『湧』<blog magazine> nishitakesi

読み物、情報を発信するWebマガジン

【コウ】スピリチュアルと知性主義_17

シュリー・オーロビンドのアシュラムに足を踏み入れると、沈黙が私を包みます。中庭の中心にはシュリー・オーロビンドとマザーの墓があり、大きな長方形の石の上には花びらで美しい模様が描かれています。墓に近づくほどに、沈黙の膜は厚さを増します。私はこのような沈黙を他に知りません。はじめて墓を訪れたときは、自分の感情を場投影しているだけだろうと私は疑いました。けれども訪れるたびに沈黙は変わらずあり、しかも私と沈黙の距離は次第に縮まるものでした。

f:id:jiyusha:20190721222050j:plain

私は地面に腰をおろして座ります。何をするわけでもなく、ただ目を閉じて座ります。意識の表面に寄せる波は次第に小さくなり、しばらくすると全ては平らになります。そして沈黙が意識を掴みます。思考というのは実に波なのです。これはヨガの世界では割と常識です。例えばヨガ哲学の古典として有名なパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』には、意識の表面に起きる波を鎮めるのがヨガだと書かれています。 しかし、経典を引用する必要も最早なく、沈黙は私の意識の現実になったのでした。沈黙する意識は修行の到達点の一段階とされています。

シュリー・オーロビンドは書いています。「修行を進めていくと、人や物がただ形だけの存在として漂うだけの、いわゆるスピリチュアルな現実を捉えられる段階に至る。物質的な現実が幻であるという理論の投影ではなく、これまで現実感覚を構成していた意識の表面の概念や思考が静まるために、世界が実体ないものとして立ち表れるのである。」

しかし、数日後、どういうわけかアシュラムを訪れるのに強い抵抗感が生まれてきました。沈黙を求めて修行をしてきて、ようやく入り口に辿り着いたのに、今になって躊躇するのはどうしてか。これまでの全てが形になりかけているところで、何故に抵抗をするのか。自分の中の一部分が沈黙に直面するのをどうにか避けて、どこか騒がしい場所に逃げ込んでしまおうとしているのでした。この抵抗の正体が何なのか、私は突き止めなければなりませんでした。

しばらくして私は気が付きました。沈黙への抵抗は自己への執着から発生していたのです。意識の表面に生まれる大小の波形、自己を構成する思考は、沈黙の前に消えていきます。通常の人間存在においては、沈黙と喧騒を両極にする一定の範囲内の状態を行き来して、自己の意識は保たれています。沈黙に寄りすぎて自己が消滅しないよう、逆に喧騒に寄りすぎて自己が分裂しないよう、所定の範囲で収まった意識の表面振動が人間の自己です。この範囲内の状態の行き来を繰り返し、線を踏み越さないように注意して、自己は存在しています。

この往来が止まったとき、つまり、沈黙の中で自己は消滅の危機に陥ります。自己を自分自身かのようにして生きてきた私たちは、自己の消滅を防ぐため、これまでと同じ振り子運動を繰り返そうとします。 全てが止まって沈黙にあるとき、何が残るのかを私たちは知らないからです。このために沈黙を避けて、喧騒の状態に動こうとする反射的な動きが、私の意識には生まれていたのでした。しかし、意識が元の範囲内に戻ろうとも、どこにも行き着かないことを私は既に知っています。行ったり来たりを繰り返しても、自己という一定の範囲内の状態に意識が留まる限り、出口はないのです。沈黙の中だけに可能性があります。

これから私はアシュラムに戻り、また沈黙の中に座り続けます。そのうち沈黙は深い底まで沈んでいき、沈黙と私の間の距離も次第になくなることでしょう。それまでは時間の流れも忘れることにして、打ち寄せては消えていく波を、ポンディシェリーの海岸で気長に眺めることにします。 少なくとも、とりあえずは7月の終わりまで。

最初はこちら

www.jiyusha.net