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【チベッタン・ヒーリング:梅野泉】No10_慈悲を出発点とする想像力

速報です!
7/28梅野泉のブログ読者ご優待のお知らせ。

 

チベット仏教高僧に聞く(イベント詳細)

 

7/28チベット高僧、自作詩から「日本」を語る会が西荻窪のほびっと村で開かれます。
日本在住のチベット仏教高僧二チャン・リンポチェ師と梅野泉とのお話会です。
仏教への洞察の扉をリンポチェという存在を通して、また詩を通して開くまたとないチャンスです。ぜひともお誘いあわせの上、ご参加ください。
お申し込みの際に「梅野泉のブログ読者」とお伝えください。
ご優待1.拙訳書「チベッタン・ヒーリング」をご優待価格でお求めいただけます。
ご優待2、当日会場で拙訳書をお求めいただきますと、イベント参加費も気まぐれご優待いたします。お帰りの際に「チベッタン・ヒーリング買いました」とお申し出いただくと、ご優待分を返金させていただきます。お得気分満載のイベントです。
どうぞこのチャンスにめったにない「ご優待」をご活用ください。

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洞察と想像力の極致として、ティクナットハンの文章を紹介します。
ティクナットハンはベトナムの僧侶です。いまでも私の記憶に焼き付いているのはベトナム戦争時代における彼の取った衝撃的な反戦行動です。彼は、森の木が切られようとするとき、「木を切るなら、私も切ってくれ」と叫び、一本の大木の前に立ちはだかったのです。痩せた精悍な肉体とらんらんと光る目。一枚の簡素な布をまとっただけのその禅僧の存在からみなぎる反戦への意志。このモノクロ写真を新聞記事でみて、衝撃を受けました。外に向かっては決定的な反戦の意思表示、内に向かっては一本の木に象徴される世界に対する大いなる愛。その両方向へすさまじいまでのエネルギーが発せられているのをその写真に見て、私は釘付けになりました。
その後、ティクナットハンはフランスに亡命、プラムヴィレッジというセンターを創設。今では多くの人が口にするようになった「マインドフルネス」の基盤を現代社会に広めたフロンティアと言えましょう。日本にも何度か来日され、私も鎌倉のお寺での法話と瞑想の会に参加し、この人が、あの時の写真で見たまさにその人か!と心震えるものがありました。この時の経験はどこかで書いた記憶があるので省きます。
アクションの禅僧、ティクナットハンは詩人でもあり、付け加えていうなら、先ごろ「私を本当の名前で呼んでください」という集大成ともいうべき詩集が出版されました。

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さてその文章です。

「もしあなたが詩人なら、この一枚の紙の中に、雲が浮かんでいるのを、はっきり見るでしょう。なぜなら、雲がなければ、雨が降ることはありません。雨がなければ、樹は育つことができません。そして、樹がなければ、私たちは紙を作ることができません。つまり、雲は紙が存在するためにはなくてはならないものです。もし雲がなければ、この一枚の紙は存在することができません。」
詩人は、深い洞察によって、モノや現象の本質へと目を向けます。目を向けるというよりは、導かれていくのです。洞察の入り口となるのはある種の直観で、直観の扉は、自然界を吹き渡るどのような微細な風によっても開かれるのです。深い洞察とは、目にした、あるいは五感で感じたリアリティから、想像力の翼を広げて、そのリアリティを突き抜けてさらに無限のスペースへと飛び立ととうとする勇気のことであり、この無限のスペースを恐れないこの生全体への絶対的な愛のことです。
ここで語られているのはAがあるからBが成り立つ、という仏教の根本にある「縁起の思想」に他なりません。
ダライ・ラマは「縁起」についてこういわれました。「空性が理解しにくいというのなら, 縁起を理解しなさい。縁起とは、空性の別の側面で、それは同じ真理を表しているのですから」と。
縁起、つまりすべては依存しあって存在しており、なに一つ独立して自ら実体をもって存在しているものはない、という発見! これはブッダの大いなる洞察でした。
詩人が紙に雲を見るように、禅僧ティクナットハンは一本の木に己を見たのです。
私たちが愛の実践、慈悲の実践をするとき、そこに常に深い洞察を伴ってなければ、表層的な慰めに終わるでしょう。
自分と他者との一体感は、自分もなければ他者もない、という主体も客体もない一元の世界においてのみ成り立つのです。
そして、それを体験として助けてくれるのが五大元素との一体感であることを言っておきたいと思います。
ところで、人が一元の世界で、どんなリアルを示すことができるのか?そもそも二元的世界に生きている私たちがそんなことが出来るのか?
しかし、ティクナットハンは「木を切るなら私を切ってくれ」という反戦の意志のなかにそれを見せてくれました。
当時私たちは、権力対反権力、愛と憎しみ、という二元論真っただ中の70年代初頭の学戦運動の渦中におり、私はベトナムの一禅僧の勇気と決意に打ちのめされたのです。
なぜなら、そこに、世界への、生への、「愛」を感じ取ったからです。
すべての行為に、愛と慈悲が宿りますように。
すべての言葉に、愛と慈悲が宿りますように。
誰の心にも愛と慈悲が宿っている、という見方が世界のものとなりますように。

(文責は梅野泉)NouploadによるPixabayからの画像