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【コウ】スピリチュアルと知性主義_09

標高が上がるにつれて風も冷たくなり、蛇のようにくねりながら延びる坂道を登れば、雪に包まれたヒマラヤの山脈を両脇にして、小さな町が見えてきます。標高は3100メートル、旅の目的地のバドリナートに私は到着したのでした。チョーター・チャールダームという、ヒンズー教徒が一生に一度はすべきとされる巡礼の地の1つが、バドリナートです。数キロにも及ぶ巡礼者の列ができるほどシーズン中は混み合いますが、私の訪問時は寺院が一般に開かれる前で、雪の降る町には数匹の野良犬がうろついているだけでした。神々の谷と呼ばれたこの地は、その名前に相応しく、自然と旅人を厳かな気持ちにさせるものです。

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雪で道が閉ざされていた期間を除いて、リシュケシュからバドリナートへと15日をかけて私は歩き通しました。バドリナートの山々に囲まれながら歩みの日々を振り返れば、ある山の寓話が思い起こされます。人生には2つの山があると寓話は語ります。

第一の山は込み合っていて、人々が我先にと競いながら山道を登っています。この山は私たちの大半が必ず登るものです。時代や社会、学校や親などが約束した景色が山の頂上から見えるとされ、この景色のために私たちは山を登ります。成功、快適で便利、安心できる生活、そういったものが頂上にはあるのかもしれません。登っている最中は登ることに夢中であり、人々は頂上から見える景色の価値を問うことがありません。山の道は狭く、頂上には長蛇の列ができているので、なるべく前に進もうと人々は先を急ぎます。そのように、ただただ人々は自分のために登り続けます。

混み合った第一の山とは別に、静かに、悠然と第二の山が立っています。この山は全ての人に開かれ、山道もたくさんの人が登れるほど広いながらも、実際は数少ない人しか登ることがありません。数は少ないながらも、人々は互いに助け合いながら、山を登っていきます。第一の山の頂上から見える景色に満足できなかった、幻滅した、または予期できぬ出来事から第一の山を下山した人が、幸運に恵まれれば、第二の山に辿り着きます。この山に入山するためには、登山者は第一の山で溜め込んだ荷物を捨て去らなければなりません。第一の山での登山を可能にしていたテントや酸素ボンベなどが荷物に含まれ、捨て去るにはある種の覚悟が必要とされます。この荷物をいかに捨てて、身軽になれるかが、第二の山をどれだけ高く登れるかを決定するものでもあります。

第一の山の登山者が第二の山の登山者に出会ったとしたら、思わず首をかしげてしまうことでしょう。第一の山が約束するものが人生の価値であるはずなのに、第二の山の登山者がいかに自由であり、満ち足りて映ることか。第一の山で必要不可欠とされている荷物もなく、ましてや第二の山は第一の山よりも道も険しいはずなのに、この人にはなぜに恐れがないのか。自分という小さな存在ではなく、より大きなもののために第二の山は登られます。真の自由は、この大きなもののために、おそれず自分を捨てることにあるのでしょう。ある有名な聖者は第一の山を指差して「死の山」、第二の山の上に立って「生の山」と呼んだものでした。

大学卒業後の私の目の前には、ただ第一の山だけが険しくそり立っていました。こうして振り返ってみれば、私がずっと探し求めていたものは第二の山にあったのですが、そのための道は大学という場所では見つかりませんでした。私はリベラルアーツ大学に進学して西洋哲学を専攻しました。しかし、4年間の大学教育を終えて、私の求めた知識、学問の道は第一の山につながっていただけだと私は知ったのでした。

(文責及び画像はコウによる)

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