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【コウ】スピリチュアルと知性主義_08

大学の4年間を通して、私は次のことを知りました。学びを深めれば深めるほど、確かに知り得るものなどはなく、個人が知識として得ることができるのはごく限られた小さな領域なのだと。後の世の情勢にも現れるようになることでしたが、どれだけ研究者の努力を合わせて精度を極められた知識であっても人の意思によって曲解、操作ができ、解釈の裏には利害関係や信条、感情が潜んでいることも私は学びました。

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また、マックス・ウェーバーが指摘したように、学問が与えられるのは構造の解明だけであり、論理的に等しく優れた、異なる価値や生き方の優劣を決められるものではありません。それは正当な預言者的人物にのみ任せられた仕事であると彼は言いました。これは良心的な学究を表す言葉ながら、しかし、個人の自由が肥大化した世の中に価値の優劣を教える人や場所がなければ、その結果は現代の社会に如実に現れているとおりでしょう。

そしてなによりも、私が2011年に体験した気づきが、同じだけの震度を以て自分の中に残っていました。1つのものが去り、別のものが去っていくのは人生の変わらぬ事実です。しかし、変わっていくものを自己の一部として捉えるのは人間の性でもあります。友人、家族、お金、仕事、ましてや自分自身、これらを自己の一部として捉えたとき、移ろい、朽ち果て、消滅する存在の時間の循環がはじまります。時間の循環は私たちの存在の中心にあります。それは外部の事柄に起因する変化ではなく、私たちの自己同一性、アイデンティティの成り立ちの一部として組み込まれている、時限装置のようなものです。自己の意識は全ての外部の対象を在り余る存在であるため、どのような対象を選ぼうとも選択肢が十分であることはなく、常に自己は対象との差異を感じ続けることになります。

この自己と対象の差異が大きくなったとき、人は人生に底なしの空虚感を見ることとなります。虚空を直視するのは難しく、幸か不幸か、いわゆる「普通」の世界にあり続ける限り、外部の対象を一部としなければ自己は存在することができません。そのために外部の対象が意図するにかかわらず選ばれ、この対象を守り、増やそうとする執着心が起き、逆に対象への脅威には嫌悪を抱くようになります。この過程の繰り返しが人間の存在であり、肥大化した様々なサイズの自己が、濃淡混ざった執着と嫌悪の渦のなかに蠢いているのが「普通」の世界であるとも言えます。

もちろん、この混沌とした「普通」の世界には美しいもの、笑えるような可笑しいもの、芯に迫るほどに人を感動させるものもあります。避けがたく、耐え難い人間存在を可能にしてきたのは、これらの喜劇や悲劇、芸術といった人間的営みなのでしょう。現代では娯楽も同じカテゴリに含まれるのかもしれません。大学時代に古典小説を好んだ私は、人間の性が美しく、ときに可笑しく、または壮絶に描かれる文学の世界に、深く傾倒していました。しかし、根が哲学的であった私は、その世界を1つの大きな問いとして捉え、この問いの答えを探さずにはいられなかったのでした。

この問題の核心に迫るためには、西洋的な認識方法以外のものが必要でした。「自分」を確固な核とした思考方法では、「自分」の存在を揺るがすような根本構造は捉えられません。しかし、当時の私はそれ以外の方法を知ることなく、ただただ自分の力には余る問いを前にして、「もうどうでもいいや」と思うようになっていました。このときに私は大学を卒業して、グローバル金融の世界に進むこととなりました。

(文責と画像はコウによる)

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