地湧社『湧』<blog magazine>

地湧社の読み物、情報を発信するWebマガジン

【コウ】スピリチュアルと知性主義_07

次の進路を探しているうちに、私はアメリカのリベラルアーツ教育について知りました。いわゆるアメリカの名門大学では、全人的な教育、人間的な側面を十分に伸ばすことを理想とした教育が行われているのだということでした。そこではスキルの養成や就職よりも学びのための学び、学生自身が考え、意味を求める力をつけることが第一とされているということでした。

f:id:jiyusha:20190512230529j:plain

これは日本で私が見たような手段としての高等教育とは反対のものでした。求めるものが見つかるかもしれない場所があるとするならば、ここ以外にはあり得ないだろうと私は確信しました。卒業生や在校生に問い合わせ、実際に大学を訪問して私は自分の確信を深めました。短期集中の受験の準備であったながらも、結果的に第一志望の大学に入学できることとなりました。2012年、私は日本を離れて、アメリカに向かいました。

リベラルアーツ大学での4年間の学びはこのブログにまとめるには余ります。短い文章でまとめると、「自分」となることを私は学んだのでした。「自分」などいう当たり前のことを学ぶためにアメリカ、ましてやリベラルアーツ大学まで行く必要があったのか?当然ながら浮かぶ疑問です。しかし、特に日本人であれば、この当たり前のことがいかに難しいことを既に知っていることでしょう。社会で生まれ育てられた私たちの頭の中は「自分」のものではない考え、習慣で溢れています。権威や慣習、周囲の反応だけを理由にして、「自分」のスイッチがオフにされている状況がどれだけあることでしょう。この条件化、習俗化を更地にして、空っぽの状態から「自分」の頭で疑い、考えて、知ろうとする。哲学から映画学まで、リベラルアーツ大学のどの授業にも共通して徹底されていたのはこの点で、学生は嫌でも「自分」を持たざるを得ない環境でした。アメリカ生粋の個人主義も合いまり、学問だけでなく生活のあらゆる面で「自分」の意見、立場を明らかにすることを求められたものです。

そして、この「自分」となる過程は「他者」を抜きにしては語れません。専攻、人種その他のバックグラウンドの異なる学生が、古今東西の古典を共通の土台として議論をすることで、自ずと差異の中から「自分」が生まれてくるものなのです。学生と教授の学ぶことに対する真剣さがこの過程に拍車をかけました。また、「自分」を練磨する過程が、古典という磨き石によってされることも大きな意味がありました。デカルトやスピノザ、ニーチェ、ヘッセ、ドストエフスキーや数々の著者の厳密かつ深淵な思考を縦断して、過去の偉大な人々は「他者」であるだけではなく、「自分」の延長線上にいたことを私は知ったのでした。ときには授業を欠席して、それこそ山のような数の本を私は読み漁りました。こうして、常に考え、問う習慣は、私の骨の髄にまで染み込むようになりました。

しかし、これらを経た後でさえ、私はいまだに自分が前に進んでいないことに気が付きました。人文学や社会科学の多様な学問体系や芸術の形に触れ、自ら読み、考え、書き、話すことを学び、リベラルアーツ大学という場所に私が期待していたものは概ね与えられたはずでした。これが現代の高等教育のなかで最も贅沢で先進的な形の1つであったことは言うまでもありません。素晴らしい学びの機会に恵まれたにも関わらず、かつての自分が歩み出した地点から動けていないのではないかという疑いを私は拭いきれませんでした。

 (文責と画像はコウによる)

次はこちら

www.jiyusha.net

最初はこちら

www.jiyusha.net