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【コウ】スピリチュアルと知性主義_06

 修行といっても、何を目指しているのか?これは短く答えるのが難しい点です。文字や数字などの表象からの伝達に依らない、解釈の余地を挟まない真実を求めている、とでも言えばいいでしょうか。

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この真実は特定の宗教や宗派を超えて、全て真の宗教、哲学、そして芸術が指し示しているものだと私は考えています。キリスト教、仏教、ヒンズー教、無宗教の知的また芸術的分野の作品や著作、実践者らとの交わりを通して、真実の変わらないことを私は知りました。しかし、真実は特定の人間を通して知られ、生きられ、表現されるものです。この真実はその人という身体、人生を通してはじめて成るものであり、他の人にも同じようには現れません。そのため、もしこの真実を知り、生き、伝えていこうとするのならば、自分の身体、存在を通して近づかれなければならないものなのです。このための方法の1つに修行を位置づけることができるでしょう。

 そして、なぜヒンズー教なのか?私はキリスト教の家庭で生まれ育ち、日本という仏教の伝統が残されている国の国民でもあり、意図せずして仏教系の高校に通ったこともあります。自然な流れとしてはキリスト教、もしくは仏教という選択をしたはずでした。しかし、はるばるインドの地を訪れて、私はヒンズー教の伝統に辿り着きました。ヒンズー教を選んだというよりはヒンズー教に選ばれたと言う方が正しいような数奇な出来事の積み重なりでした。ここで便宜的に理由付けをするならば、西洋哲学の学びを通して大学時代に形成された私の哲学的趣向が、ヒンズー教の教えと実践に近かったのは選択要因の1つです。また、ヒンズー教の実践は合理的であり、知性をおざなりにしない修行のアプローチを好む自分に相性がよかったのもあります。

 しかし、職業的な僧でもない私が、今の時代になぜ、このようなことをするようになったのか?この問いに答えるためには少し時間を戻さなければなりません。つい数年前まで、私はいわゆる「普通」の人でした。キリスト教の家庭に生まれ、教会に通いながら育ったものの、自分の意識下の生活はいわゆる「俗世」もしくは「普通」の世界のものでした。私の生きて、信じていた世界には神や仏はなく、いわゆる現代的な人生を送っていました。神の声が聞こえたり、ビジョンが見えたりという、いわゆる神秘的な体験などもありません。むしろ大学生の頃は、いわゆる宗教的またはスピリチュアルという人々を私は見下してさえいました。ニーチェに強く影響されていた当時の私には、これらの人々は知性的でない、弱い人間であるように映ったからです。

 (文責と画像はコウによる)

※05と06の順番が入れ替わっていました。大変申し訳ございませんでした。

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