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【コウ】スピリチュアルと知性主義_01

 こんにちは、コウです。この文章は日本かアメリカ、世界中のどこかで私が出会い、特に親しくなった人たちに向けて書いています。ヒマラヤの山頂に向けての旅を明日はじめるにあたり、みなさん宛てに文章を書くことにしました。今は北インドのリシュケシュという場所にいます。旅の目的地は標高4000メートル付近にあるバドリナートという、ヒンズー教徒の巡礼地です。なぜこの旅をするのか、なぜこうして書いているのか。それをこれから説明したいと思います。

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まず、これはいわゆる「スピリチュアル」な旅なのでしょう。しかし、一般的な「スピリチュアル」というジャンルに私は懐疑的ですし、この名称を使うのにもかなり躊躇しています。ただ、この名称が最も広く知られていて便利なので、便宜的に用いています。私が「スピリチュアル」という言葉で表そうとしているのは、特定の宗教や神に限定されることなく、人生や世界に関する重要な問いを探求しようとする活動のことです。ただ、こう書くと、それには哲学や科学の分野も含まれるのではないかと思われるかもしれません。実際、哲学や科学などの知的、合理的な人間の活動と、ここでいう「スピリチュアル」なものが目指すところに相違はないと私は考えます。しかし、異なる名称を用いているのにも理由はあります。

 「スピリチュアル」と表現されるものと哲学や科学といったものの大きな違いは、知性や理性の限界を超えるものを信じるか否かにあります。後者は、例えばニーチェの言ったように、人間とその世界の全ての現象を人間が説明できる思考対象にしようとします。この活動には合理的、知的、哲学的、科学的など様々な名前が付けられています。人生や世界に関する重要な問いを探求するといったとき、現代世界に住む私たちのほとんどは、このアプローチをとることになります。たくさんの本を読んだり、数式や化学式を学んだり、実験をしてデータをとったりします。こうして現代の私たちは「真理」に近付こうとします。

 この方法はある種の疑問を解くのには効率的で、目に見える成果をあげます。得られた答えを他の場面に応用することもできます。しかし、この方法をいくら用いても、建設的な答えが何も見つからないような種類の問いもあります。そこでは「これでもない、あれでもない」という否定だけが続いて、どうにもならない状況になることがあります。知性や理性と呼ばれるものには限定があるということなのです。少なくない数の哲学者が、知性や理性の限界をよく知することで、それを超える質問自体をしなくなるのだと言いました。しかし、それでも変わらず問いはあり続けます。また往々にして、理性や知性で解くことができる問いよりも、限界の外にある問いの方が生きた問いであることがほとんどです。知性や理性の限界を知ることも必要ですが、そこからどうするかが問題なのです。

 この限界を知るために私は大学の4年間を費やしました。振り返ってみれば、この4年間は必要不可欠な過程ではありました。しかし、アメリカまで行ったのにもかかわらず、探していたものが見つからなかったことに、当時は小さくない失望感と挫折感を懐きました。むしろ、アメリカに行く4年前よりも混乱して、無力感を抱いていた自分がいたのだから尚更でした。

(文責及び画像はコウによる)

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