【ポエタロ:覚和歌子】「電波」ショートショート・エッセイ

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これを書いている今、地球の裏側のリオデジャネイロで熱く催されているオリンピック。

電波のおかげでリアルタイムで観戦できる。

って、昭和の人みたいだが、みたいじゃなくてまぎれもなく昭和の人だった、私。

ときどき忘れる。

それにつけても2020年である。かねてから私は東京オリンピックを憂いている。

東京の8月の酷暑にアスリートを連れてきて身体を壊させたいのか。いい記録を出させたくないのか。

交通を混乱させて、お祭り騒ぎを隠れ蓑に都民の日常生活を妨害したいのか。

いっときカンフル剤のように経済を活性化させても、すぐにまた落ち込むというお定まりを肝に銘じてないのか。

(ポエタロガーデン再掲)

【湧】人間の自然能力No17

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増田  鳶職の人は、必ず一生に一度や二度は高いところから落ちることがあるそうです。その時に、落ちると思ったら死ぬ。飛び降りてしまうのだそうです。そうすると、ヶガはするけれど命は残る

竹居  迎え入れるのでしょうね。
今村  その切り替えができるかどうか。
竹居  やっぱり死ぬ人は淘汰される人なんです。
永沢  ここが野口整体の何とも言えない野蛮なところです。(笑)何かあると、すぐに淘汰されると言っておしまいにする。仏教と言うのにためらわれるところですね。けれども、仏教でも宇宙の理法にしたがうものは栄え、そうでないものは滅ぶというわけで、「淘汰」という野蛮な表現を通じて野口整体が言わんとしていることは、仏教からそれほど遠くないのかもしれません。
竹居  結局、そういう種を残してもしょうがないという自然界の掟です。

永沢  野口先生は、自然は本物になることを求めているという風におっしやいますね。
竹居  自分を見つめるということは、自然は何かということを追求する一生と言ってもよいくらいです。今は自分の自然をわからないのですよ。本当に何を食べたいのか、という事まで。今、これかおるから食べているけれど、本当に食べたいのかといったら、分からない。そういう時は、10日くらい絶食してみると、分かる。あれが食べたいというのか出て来ますから。それのレベルで食べているかどうか、一度やってみると分かる。

永沢  自然の中に、そういう本物になっていこうという傾向性というか、力みたいなものがあって、それがいつも働いているんだということですよね。
竹居  そうですね。それが欲求、内なる欲求なんです。それを誤解して、感覚的なものを内なる要求だと思っている人がいるのですよ。
増田  断食した後では、何か食べなければというなんとなく働いている意識が
なくなりますね。食べたくはなるけれど、食べなきやという意識がなくなる。

(1997年11,12月号「湧」再掲)

【湧】人間の自然能力No16

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今村  以前竹居先生にワークショップに来ていただいたのは、丹沢の農家を改装した寮なのですが、本来なら泊まるのはだいたい50人位が適正規模なんです。そこに、その時は百人来ました。百人いたら、受け入れ側は。これは大パニックになるに違いないと思ったのですが。実際にワークをやると、あれ、30人位かな? という感じ。いろいろなところでべたべたべた纏わりついていないで、生活の中に透き間があるんです。天と天との間に、風が通る。
 竹居先生が今のような内容のお話をすると、それが全部参加者の生活の中に流れていって、そうなった時、いっぱいすき間ができていたんです。
竹居  それは言葉一つが体に入って、インプットされると、自動的に体が変わって出てくるということです。私かやっているのではなくて、みなそれぞれ自分の体がそうやっているのです。
 1番変わっだのは、その辺でわあわあ遊んでいた子どもたちですね。途端にさっと変わって、暴れていてもうるさくなく邪魔にならない。
今村  人間のいる空間というのは、物理的な広さ狭さというものではないのですね。
増田  私は、熱気球に乗るのです。気球は、ビルの七階くらいの高さの大きな風船で、これをバーナーで火を焚いたり止めたりして上下させるだけで、後は風任せです。大きな物ですから、点火してから反応が出るまでの時間が長くて。うっかりしているとパワーを失って落ちてしまいます。 ところが慣れてくると、気球が自分と同じ体になって、気球がパワーを失うというのが事前にわかるのか、同時にわかるのか、動きを見ていていてバーナーに点火するのではなく、なんとなく自然に自分がひもじいからバーナーを焚く。本能なのです。あれだけ大きいものが自分の体の一部になってしまうんですね。
竹居  それか、感応というんですね。

増田  ある競技では様子を見るために気球をしばらく空中に留めておかなければならない時があるのですが、それは、流れの方向の異なる風と風の境界線上に留めておくということで、そんなこと神様しかできないと思うわけです。ところがどうしてなのか自分でもわからないんですが、その境界線で止まっていることがあるんです。
竹居  もともと人間存在そのものが神業ですから。人間らしくなっていれば神業は実現するんです。
 野口先生が柿の木から落ちた話があるでしょう。落ちる瞬間のことが「あの枝は太い、あの枝は細すぎる。よし、あの枝に捕まろう」と書いてある。見ていれば本当に一瞬なのに、その間にこれだけのことを見極めておられる。それは、臨死体験するとわかるのではないかと思うのですが、瞬間的にすごい速さで全部見えるのですね。私自身も汽車から落ちて、その落ちる瞬間に私の一生か全部見えましたからわかります。ですから、枝くらい選べると思いますよ。
 命の瀬戸際というのは、どんなぼんくらでも集中するのです。だから危ない目に遭う必要があると思いますね。その時に人間の原点に戻るというか、本能に目覚めるんです。
(1997年11,12月号「湧」再掲)


【湧】人間の自然能力No15

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今村  その音で体の開く部分、あるいは体の開き方が違うという視点から見た時、先程のアイウエオとつながる体という話でもありましたけど、それを知った時初めて、僕は五重の塔の意味、どうしてあの姿をしているのかということがわかったような気がしました。自分で音を出していった時に、ああ、そういう世界を現しているのだなとわかったんです。そうすると、五重の塔でもピラミッドでも、古くから残って大事にされている建物の別な意味が見えてくると思いました。
竹居  その塔を見ているだけで、自分の体が整ってくる。そういうものが、名作と言えるのでしょうね。それは難しいことではない、自分の体に聞けばいいのです。自分の体にもともと整った状態があるのですから。どこかが歪んでいたり。どこかが硬くなっていたり、どこかが欠けていてもだめなんです。そういう時は。その欠けたところをじっと見ていれば自然に潸ちてくる。生命にはそれだけすばらしい力がある。それを信じて従うということをしないでいろいろな知識に惑わされてしまうので、自分を見失ってしまうのです。
 例えば、月を迎え入れるというのは、割合簡単なんですよ。月の光を自分の体に浴びると思えばいいのです。腋の下から指の間まで、月の光を自分の全身に浴びようと思って見ていると、光の当からないところが見えてくる。例えば耳の裏が当たらない、足の裏が当たらない、髪の毛一本一本に当たっていない、と光が当たらないところを見ているとさっと当たってくる。そうするうちに全部当たるのです。全身に当たるようになった時、鴟尾がパッと開く。やっているうちにもう眉間がむずむずします。鏡を見たら、
びっくりしますよ。眉間がニセンチだった人が、五センチも空いてしまう。それが愁眉を開くということなんです。

 そういうことを一回体験しただけでも違うんですよ。例えば竹を見る、雨を見るということでもわかります。空気は見えないし、あまりにも慣れてしまっているから抵抗も感じませんけれど、空気も自分の生命にとっては他者なんです。水と同じです。水の中を歩く時には抵抗があるでしょう。それと同じに空気にもあるのです。

 

増田  以前に断食をしていて、気づいたことがあるんです。断食をした後、東京駅を歩いたんです。いつもと同じに混んでいて、普段でしたら人の波を避けながら通るのに、その時は、阻むものがなく、すっすっとまるで自分の前が空いていく感じでした。逆に訓子の悪い時には、すべて邪魔でぶつかるように感じます。

竹居  たぶんそれは体の気が円の気になって、空聞か広くなっていたのでしょう。円の気というのは、親指にうながっていまして、親指を触ると体の中から頭も首も腕も指も膨らむんです。あるところまでそれが広かって気が動くと、腰椎の四番が見えてくる。断食した時には、そういう状態になっていたと思います。

 五本の指全部が受け持って、それが世界を広くする。指か自由であれば、自分の生存空間というものは限りなく広かってくるのです。

 ですから仕事で手を使うことによって。その空間が広くならなければいけない。永沢さんは「動作が命を助けたり」と書いておられましたよね。それは自分の手をどう使うかによって。自分の生存空間が前後にも左右にもそして高さにも全部にわたって広かってくる。そうするといつも自由で、楽なのです。いわゆる自分の世界が広くなるということです。

 ところが、間違った使い方をするとどんどん狭くなる。それが疲れや、どこかか惡くなるということにつながってくる。

 一挙手一投足が命を左右すると野口先生かおっしやった、まさにその通りなのです。

(1997年11,12月号「湧」再掲)

【紅露工房便り】夏休み ~西表島(いりおもてじま)より~

こんにちは。

 

夏休み只中、こども向けのワークショップが数回開催されました。

ヒルギ(マングローブ)や藍で絞り染めをします。

 

悩みながらやる子、勢いよく仕上げる子、時間をかけてこだわる子、、皆それぞれに自由な発想で作品作りに取り組んでいました。

 

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絞り染めは、広げて見るまでどうなるかわからないところにも面白さがあり、ひとつとして同じものはできません。

 

毎度、こちらの方がワクワクさせてもらっています。

 

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(文責と画像は紅露工房のスタッフによる)

【湧】スプーン一杯の砂糖

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 季節の移り変わりは速い。ついこの間まで暑いと思っていたのに、朝晩寒いと感じるようになった。もう少し楽しみたいと思っていた金木犀の香りもいつの間にか消えてしまっている。
 あの騒動をもたらした黒蟻達は冬籠りの準備が整ったのか、もう一匹も姿を現さない。今年は例年よりも暑い日が長く続いたせいだろうか、秋口に入ったというのに体長十五ミリもある黒光りした蟻達が数日間も砂糖壺めがけて押し寄せてきた。壺を移動して別のところへ隠しても、蟻達は家中に拡散してかえって始末が悪くなる。ほうきで掃き出して、情報となりそうな臭いを消すために雑巾で行列の跡を拭いてしまっても、また戻ってきて一日でも二日でも探し回る。うっかりしていると足によじ登ってくるので、つまむと指に噛みつく。そのうち家人は寝ているところまでやって来るのではないかと不安が募ってくる。薬ぎらいの我が家は殺虫剤は置かないし、使う気にもならない。この蟻との闘争は果てることなく続くかと思われた。
 ところがこの問題は瞬時にして解決されたのである。蟻達が侵入してくる窓枠の上にスプーン一杯の砂糖を置いてみた。蟻はそこから引き返してしまい、家中をうろうろしていたものまで一斉に引き上げてしまったのだ。結果的には考えてみれば何でもないことなのだけれども、自分達の知恵と策のなさにはあきれ果ててしまったと同時に、自然というものの鮮やかさに笑いがこみあげてきてしまった。人間は社会や自然に対してこの浅はかな対応の繰り返しをやっているのではないかと思った。蟻君来年また元気で会おう。

(MM) (月刊「湧」1989年11月号)955169によるPixabayからの画像

【チベッタン・ヒーリング:梅野泉】No15_男も女もない。本源のエネルギーとして表現されたがっているものがある。エロス

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チベット仏教でもそれ以前からチベットに根づいていたボン教でも、その懐に深く入っていけばいくほど、そこに息づいている女性性のいのちまるごと躍動するような強いエネルギーと湧きあふれ出る慈悲と智慧を感じないわけにはいかない。
そのよい例が、ターラ菩薩だ。こんな話がある。前世ではその方は「月姫」と呼ばれ、大変に信心も深く、生きとし生きるものを救いたいという気持ちも燃えるように激しいものがあり、菩提心の行でも素晴らしい成果をあげていた。それを見た僧たちは女性のままでは十分なことは出来まい、とこうアドバイスした。「来世は男に生まれて修行ができるように祈りなさい」と。それを聞いた姫は毅然とした態度でこう答えたという。
「本来は、男も女もない。男だ、女だ、のたわごとは、ただの二元論。私は女性の姿のままで菩薩となると誓う」と。
男性優位の僧院を向こうに回して、なんと潔い表明だろうか!
この誓願によって菩薩となった母なる仏母ターラ。21尊の姿で顕現するとされ、その一例が前回紹介したヴァジュラヨギーニ。ナローパの六法で有名なカギュ派の偉大なマスター,ナローパの明妃だったことでも知られている。
チベット仏教の開祖グル・リンポチェには、イシェ・ツォゲルという明妃がおられ、名だたる密教行者は、大抵は明妃とともにあって、数々のミラクルを起こしている。
そして、大成就者たちの伝記を読むと、最後は必ず「ダキニたちのパラダイスに昇った」と記されている。ダキニこそは、その並はずれた美しさとパワーゆえに、尊ばれ、親しまれ、また怖れられてもいる女神たちのことだ。変幻自在に空を自由に駆け巡る存在であることから、英語では「スカイ・ダンサー」と呼ばれることもある。
ある行法や法要などが成就すると、その場所だけ、急に天候が激変して大雨が降り虹が立ち上ることがある。日本でも来日中のラマの行く先々でそういうことが起きた。こんな時、ラマたちは決まってこう言われる。「天のダキニたちが歓び、祝福の花々を地上に投げている」と。
私たちが大島の火の神にターラダンスを捧げたその帰り道、いっとき、あれっ、と驚くような雨が降り、虹が出たのを思い出す。
チベットの女性で特筆すべきは、エゴを断ち切る、という意味の「チュ―」の行を体現したマチック・ラプドン。ドラムとヴァジュラ・ベルで魔を打ち砕き、独得のメロディで経文を唄い、一切衆生を慰め、悟りへと導いた。このすさまじいまでのカッコよさは何だろう!と思うほど憧れの女性である。
初めてチベット仏教に触れた折、瞑想の中にはっきりと現れたのが青い湖に映る雪山と、その上空を雲に乗って飛んでいる姿の女神だった。見たままをラマに伝えると、「それは間違えなくアッチだ」と教えられた。アッチはカギュ派の守護神で、勇壮な女神だ。
ボン教でも女神たちは大活躍だ。五大元素、地水火風空、それぞれをつかさどるダキニが存在する。そもそも、大自然と直結した女性性のエネルギーは、洗練された学問としての仏教よりも、プリミティヴな場で渦を巻き、流れ出してゆく。素のいのちそのままのありようだ。その全体をエロスと呼ぼう。私は、すべての女性たちのなかにダキニを見る。それは、花開こうとしている。そして、世界に向かって謎を問いかけ、「男も女もない。素のいのちの世界に目覚め、ともにダキニ・パラダイスを創ろうではないか!」と呼びかけるのだ。
数年前だが、チベットのダキニたちからエネルギーを受けて、「踊る女神」という散文詩を書いた。

女の胸が割れて、踊る女神が出現すると、その圧倒的なエネルギーの前で人生のあらゆるゲームは突然色あせる。女神たちは、怖れや不安、争いや虚偽をたからかな笑いで笑いとばし、「いっさいは妄念の幻影」と歌い、雷雲を呼び、雨を降らせ、虹となって消えてゆく。地上のあまりの苦しみに、女の胸はすでに割れている。あなたが踊る女神に気づかないのは、いまだゲームに夢中だからか?

これは「恋文」という詩画集の一篇。インド好きな方ならご存知かもしれないが、山岡昭男氏が編集されていた「天竺南蛮情報」という雑誌があった。ここに一年間連載した12編の散文詩をまとめたのが「恋文」(2014年制作、12編の詩と絵)。特定の人への恋文ではなく、森羅万象への恋文。絵はMAKOTO. 20代半ば、その絵に震えるほど感動した。

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この「恋文」はチベット仏教やゾクチェンから受け止めた金の塊のような教えを一度溶かし、森羅万象と私という存在とを繋ぐ楽器のようなものに作り変えたものだ。読者は、その楽器を自由に楽しんで、そこから響くエッセンスのようなものを受けとめていただければこれ以上の歓びはない。
「恋文」を購入希望の方は、FBの投稿やメッセージなどで梅野までご連絡ください。 

チベッタン・ヒーリング―古代ボン教・五大元素の教え

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  • 作者: テンジン・ワンギェルリンポチェ,Tenzin Wangyal Rinpoche,梅野泉
  • 出版社/メーカー: 地湧社
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