【湧】人間の自然能力No12

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永沢  それは、どういうことですか。
竹居  音楽の世界でいうところの半音、正音です。宇宙には波がありますか。それは音に表すことができます。その波の中に半音の波と正音の波があるわけです。そして、発声する音の波と体の場所が、つながっているんですね。そうすると、母音のアイウエオは、それぞれ腰椎の五つ。五本の指につながっています。さらに言えば、五つの天体ともつなかっていると私は思っています。
 例えば、野口先生が言っておられる「太陽に向かって吸気せよ」という朝の吸気は、やってみれば丹田に入るとわかります。月を見ていると、眉間が開いてきて鳩尾(みぞおち)が緩んできます。そうするとその腰椎とつなかっている指はどれというのが自ずと出てきます。地球の気は冲。ですから地球の気を受けると大地に足がついて軸が立つのです。そんな風に自分の体で試してみれば、わかってくることなのです。
永沢  先程宇宙のリズムとあっしやいましたが、野口先生の本の中では、生命の波というのが大きなテーマだったのではないかと思います。波と言った時に、気の波、水、体の波などというものが何重にもなっていて、その関係を脈で診るということがあるように思うのですが、その考え方の背景にな’つていることについて伺いたいのですか。
竹居  水の波というのは。脈。具体的に体で言えば、それは時間的身体と関わっています。気の波は、空間的な身体と関わっています。
 一息四脈と言いますが、一息の息の方は気の波、四脈の方が水の波です。その一対四は、生命の不文律と言っていいと思います。そうすると一年の四季、十二ヵ月、一ヵ月の週の数など、ぴったりではないにしてもほとんど四で割り切れるでしょう。引き潮も満ち潮も一日にだいたい四回、それぞれ二回ずつ来ると言います。一対四が気と水の波の割合だと思えば、基準としてはよいのではないでしょうか。
 脈には。打つ脈と引く脈があって、ドッキンドッキンのドにアクセントかおるのが打つ脈で、キンにアクセントがあると引く脈です。脈は本当に月の満ち欠けと潮の満ち引きと一緒に動いているんですよ。
 その打つと引くの間に聞がある、その間で空間的身体か出てきます。宇宙の流れ、リズムにうまく乗っていない時には、体のどこかに杢調和が出てくる。その時にこの間、空間的身体で調整するのです。ということは、外路系の問題になるのです。
 その不調和は、体癖、もって生まれた体の癖によって、呼吸器に出たり肝臓に出たりと違います。呼吸器の病気になりたくてもなれない体があるのです。そしてその体癖を超えれば、何があっても調和が取れるようになると言います。体癖を乗り超えたところで人間は自然になれるんですね。癖があるのが自然ではなくて、恐らく、それを超えることができて初めて個性が出てくるわけですね。体癖的な動きをしている間はそれは個性ではないんです。
 よく。あの絵かきはたいしたものだけれど癖がある、でもそれが個性だと言いますが、私はそれは間違いだと思います。体癖を超えてこそ、個性が出るのですが、そこまでの大というのは、それこそ一世紀に何大もいない天才ですよね。たいていは体癖がその人の特徴、個性だと思ってそこに甘んじてしまっています。ですから体癖を超えるということは、人間の理想と言えると思います。
 野口整体で言う体癖には左右型というのがありまして、それには右と左が違うという特徴があります。でも感受性がそれを乗り超えるだけのきめ細やかさをもっていれば、左と右が廚っていなくてもいいのです。その癖を乗り越えるというのは、揃っていないものを揃えるというよりは、全部を使うことでできるのではないでしょうか。
(1997年11,12月号「湧」再掲)


【湧】人間の自然能力No11

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竹居  例えば、「あの窓閉めておいてね」と言って出掛けるとします。帰ってみたら窓が閉まっていなくて怒るという時、相手が「うん、閉める」と言う、こちらの言うことをきちんと受け取ったという感じを確認していなければ、そんなこと言わなかった、聞かなかったとなってしまいます。
 最終的に突き詰めていくと。「見る」というレベルなのです。実際にそこに目をやっていなくても、私の言う「見る」レベルでは、その大は相手の中身の情緒の変化まで見られるようになるのです。遠くに離れていても、ある人の状態がわかるのを皆さん気のせいにしてますけど、本当は見ているのですよ。
 そして、それだけ見るレベルを自分の中で上げていきますと、見えないものが見えてきます。はじめは、見えないものが見えなく見えてきます。その次には見えない状態が見えて見えてくる。
増田  見えるというのは、どういうことですか。
竹居  一番やりやすいのは、足の指か五本全部見えているかどうかです。たいてい薬指や小指が消えてしまっていたり、あるいは上側は見えるけど下側は見えないとかあって、最初から全部見えている人はなかなかいません。そうしましたら、見えない部分を、それが全部見えてくるまでじっと見ているのです。そうするとわかってくるはずです。

 実際に自分の体の見えないところを目をつぶって探すというだけで集中してくるのです。何かをじっと見るということは、生きることの基本です。それなのに気が抜けてしまって、見ていないのです。

見ていなくても、自分の足で歩いていなくても、かりそめに体を動かしているつもりだけで生きられるような世の中ですからね。このような能力というのは、余計なものをふるい落としていけば皆さんにあるんですよ。

 整体協会の稽古場では訓練として、和紙を破らないようにしてその上を能のすり足で歩くことをするのです。足を浮かさないで滑らせるようにして、五時間くらいやると汗びっしょりです。さらには、和紙の上で寝たり起きたり、ほとんど猿飛佐助の世界です。そうやって集中力を養うのです。その時、体が消えているんです。消えるということは、全部見えた後で消える、本当に存在感のある存在から、それが無になる。我を超えるということですね。
永沢  その場合、消えかかっていて残っているという時は、どうするのですか。
竹居  見えなかったところが残るんです。
永沢  ええ、その残るところ、つっかえているところの処理は、どうするのですか。
竹居  全部の中でそこが見えない場所です。他が消えた時に、見えないところが出てくる。それは、あなたはそこを見なさいということですから、そこをじっと見ていればいいんです。そうすると消えていきます。消す技法はあるのですけれど、私はそれは邪道だと思います。技法を使ったら何にもならないですもの。
永沢  判断しないで見ているだけですね。

竹居  その見るレベルが上かっていけば消えていくんです。ですから、それを目安にすれば、自分の見るレベルは浅いのだとか、識別の世界で見ているのだとかがわかります。だんだんレベルが上かって集中度か高まっていくと消えていきますから。
永沢  開い气流れてくるということですね。
竹居  自分の中のこわばっているところとか、止まっているところとかが、うまく宇宙のリズムの流れに乗ってくるということです。

 体の中には時間的身体と空間的身体があります。時間というのは、脈を打っています。生命というのは、一刻も止まることなく流れている。それは宇宙と同じです。その時間的身体と空間的身体があるわけです。その両方が一緒になってはじめて、身体というものになるのであって、どちらか片方ではいけないのです。識別の世界も識別しない世界も一緒にみんな備わっていて、それかうまくバランスを取っていれば、いつも即興的に使い分けることができる。けれど片方に働きが倔ってしまうと、例えばモノ人間になっでしまうのです。

 そして身体の中でここは時間的身体、ここは空間的身体とか部分的にあるのです。それが例えば時間的身体のところが空間的身体になってしまっているのを調整して、時間的身体に直していくと、宇宙の流れに乗っていって、自分の体を自分で調整できるようになるわけです。
 私が個人指導しております潜在意識教育というのは、宇宙のリズムに合う状態になるように手を貸すことによって。その人が自分の力で変えていけるようにするのです。ただ、ここが外れていますよと、体に一度、教えるのですね。一回ではすぐに直るということはないのですけれど、これを月に一回、一年くらい続けて教えていく气体が覚えて、ずれてくると体の方が自分で勝手に変えられるようになってくるんです。まさに潜在意識、意識できないところでの変化です。
 そしてその調整ができるのが、半音の世界。正音になってしまうと調整できません。

(湧1997年11月・12月号再掲)HeungSoonによるPixabayからの画像

【湧】人間の自然能力No10

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家村  この間。竹居先生のワークショップで、何かが来た時に抵抗するのではなく迎え入れるということを話されてましたよね。今のように子どもという別の生き物が体の中にいるという状態。それ自体がものすごく、迎え入れることをしていると感じます。そのことを自然な形でいろいろな角度から、教わっていますね。
 いつもは何となく自分が全部コントロールしているつもりなんですが、お腹の中に子どもが居ると自分がコントロールできない部分が体の中にもっで、逆に向こうが自分をコントロールすることもあったりして。迎え入れないと一緒にいられないという状態がずっと連続しているんです。そういう感覚が自分の中に残って、生まれてきた後もそのまま続いているような気もします。
竹居  一度インプットされたものがあれば、あとはそのまま動いていけばいいはずなのです。けれどあまりにもいろいろなものが情報となって識別の世界が私たちの中に入ってきますから、いつの間にか、またそっちに流されていくのですよね。ですから、常に}番本能的なところが鈍らないようにする努力か、今の世の中では必要でしょうね。
増田  その迎え入れるというワークショップを簡単に説明してください。
今村  あの時は、子どもたちが主になったワークショップでした。だいたい2、30人くらいがニメートルほどの間隔で横に並んで、裏山から採ってきた1メートル20センチくらいの長さに切った竹の棒を、次々に投げて受け渡しをしていくのです。その時に竹の槹を持った人は投げ渡す相手に向かって、「誰々さんいきますよ、投げますよ」と言う、それに対して相手が「はい、どうぞ」と言うのを聞いて投げるのです。相手はそれを受ける。たったそれだけのことですが、相手の「はい。どうぞ」も聞かないで「誰々さんいきますよ」と言った時にはもう手を離している大もいたりして、思ったより難しいのです。こちらの「投げますよ」。相手の「はい、どうぞ」で棒が出ていくような、そういう間合いの呼吸というのでしょうか、それは、自分が意識してそうするという感じではないんですよね。むしろ竹の槹の方が意識的に出ていくような……。
竹居  そして投げた後も、その相手が受け取るまで見ているのです。
今村  次に意識が行ってしまっている大は、相手が受け取ったことを確認せずに次の棒を渡す方に向いているのです。大と大がきちんと向かい合って、きっちり受け入れて渡していくということがいかに大切か、そしてそれを普段の生活の中でいかにしていないか、本当によくわかりました。
 そのワークに参加した大の中に、左官屋さんがいたんです。彼はその前から、中高校生だちと一緒に土間作りをしていたのです。それまで彼は、子どもたちを引っ張っていってこっちをやれ、あっちをやれと言って仕事をしていました。
 それが、竹居先生のそのワークを受けた途端、すっかり変わってしまったのです。人との関わり合い方がそれまでと全然違って、相手を拒絶するでもなく引っ張るでもない関係でありながら、その中でうまくキャッチボールができているような関わりに、そのワークを受けただけで彼は気づいたのです。
増田  それは、普段の生活では竹がなくてもそういうキャッチボールができていないといけないということですね。
(湧1997年11月・12月号再掲)Speedy McVroomによるPixabayからの画像



【ポエタロ:覚和歌子】「贈り物」ショートショート・エッセイ

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31歳、厄年であった。

失恋して同時に仕事がまったく来なくなった。

鬱っぽくなって、死ぬのだけは違う、と思いながらキツイ10ヶ月を過ごした。

その10ヶ月のうちに、これから死ぬまで何一ついいことがなくても大丈夫だ、という生きる自信のようなものを得た。

それは、今までどれだけの「贈り物」をもらってきたかということに、心の底から気づいた時だった。(ポエタロガーデン再掲)juniaqueirozによるPixabayからの画像

 

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【湧】情けは人の為ならず

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 「情けは人の為ならず」ということわざがある。今までこれは「人のために情けをかけるのはその人のためばかりでなく、やがて自分によい報いがあるものだ」という意味だと思っていた。ところが最近、ことに若い人は「情けをかけると相手のためにならないから情けはかけない方がよい」というまったく反対の意味で使うという。そこで大勢の人に聞いてみたら結果は両方に分かれてしまう。国語辞典などははっきり前者に軍配を上げているのだが。
 さて、このことわざはいつ、誰が、本当はどんな意味を持たせて作ったのであろうか。こう考えているうちに、どうもこれは日本語で創作したにしては不自然な言葉だと疑いを持ちはじめた。それではもし、漢文であったなら何と書いたであろう。
 「情 非 人 為」と書いていたのではないだろうか。
 これを「情ハ非人為」つまり、情けは人為にあらずと読んだら、前の二とおりの解釈とはまったく別の意味になる。情けの心は始めから備わっているもので意識的にやりくりできるものではない。たとえば、ベランダから今にも落ちそうになっている幼子を見たら誰でも適否是非善悪の判断以前に助けに走る。そのことを「惻隠の情」というが、ちょうどこのことを表しているのではないだろうか。
 「情けは人の為ならず」には功利的響きがあり、こう読んでいると人の世は住みにくくなるように思えてならない。実際の生活の中のほとんどの行為は「情非人為」なのであろう。どなたか正確な由来を教えていただきたい。(MM)(月刊「湧」1989年9月号再掲)

【チベッタン・ヒーリング:梅野泉】No13_毒を美しさに、毒を薬に、という変容の驚くべきパワー。タントラ。

五大元素の感覚を取り込んで生きていると、とてつもない自由を感じるのです。そして、チベット仏教の師たちが醸し出している軽妙洒脱な雰囲気というものが、ますます近しいものとしてまるで山や谷、雲や空のように、目のまえに展開する大自然の絵巻物のように見えてきます。師たちは、人間としての顕われを持った大自然であるかのような感覚を覚えるときがあるのです。

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伊勢神宮でのターラダンス奉納

二チャン・リンポチェとの詩の掛け合で、リンポチェがお心のままにチベット語で歌をうたわれた時がそうでした。「赤い小鳥さん、赤い小鳥さん、幸せの歌をうたっておくれ、みんなが自由に空を飛べるように、森の奥で無明の闇の中で眠る子供たちのために目覚めの歌を!」と詩のなかでお願いしたところ、それを受けて,まるでその場が昔のチベットの大草原かと思わせるような歌の風を吹かせてくださったのです。あとでお聞きすると、この歌はニンマの大学者にして聖者、ジグメ・リンパの書かれた詩領で、内容は「前世よりの仏縁あってここに集うものたちよ、孔雀のように美しい羽根を広げて舞い、仏法僧に捧げん」という大変吉祥なる歌だということでした。
孔雀と聞いたとたん、わたしは、とっさに、そうか!と思いました。なぜなら、孔雀は毒を食べるからこそ、あのように美しい羽根をもつ、と言われていることをゾクチェンのマスター、ナムカイ・ノルブ・リンポチェから聞いていたからです。これは毒を美しさへと変容させる、というタントラの象徴的な意味です。つまり、タントラでは煩悩という五毒を悟りの智慧へと変容させる!五毒を五智へと変容させるのです。なぜそのようなことが可能なのか、と考えると、煩悩も悟りの智慧もその成り立ちは五大元素だから、ということに思い当たります。五大元素が乱れているか、バランスが整っているか、の違いなのです。
この歌では、「孔雀のように美しい羽根を広げて舞い」というのですから、五智を完成させ、舞うということ。その智慧を生きとし生けるものを救うために活用し、行動し、そしてすべてを仏法僧に捧げる、という大変に深い意味です。これは美しさを見せるために舞うのではない。悟っている故に,エゴはすでにないのです。自らを無きものとして舞うのです。たとえ、悟っていなくても、仏法僧に捧げるという気持ちですべてを為すとき、自分のいる場所は清らかな世界となります。
毒を薬に変容させる、という喩えは「ターラ21尊礼賛経」のなかにもあります。ターラ菩薩には21の顕現があり、それぞれの特性があるのですが、そのなかに「毒を薬に」というターラもおられるのです。ほかにも「素早く守る」ターラ、「執着を打ち砕く」ターラ、「豊かさを分け与える」ターラなど、素晴らしい資質を感じ取ることが出来ます。
ターラは女性の姿をとって悟られた特別な菩薩であることから、女性の内的資質の成長と女性性の解放を願って、ダンスを通してターラを学ぶ特別なグループがあります。
このターラダンスを日本に伝えてくれたのはオーストラリアのフェリシティという女性で、30年来の素晴らしい友人です。彼女から「ターラ21尊礼賛経」をもとにした歌の翻訳とダンスの通訳を頼まれたのが日本でのターラダンスの始まりでした。
ターラダンスは、世界中のターラダンサーによってダラムサラダライ・ラマ法王の王宮前の広場でも奉納され、カルマパ17世にも捧げられました。
日本でも大島の三原山を皮切りに、天河神社戸隠神社、そして伊勢神宮と多くの聖地を巡り、舞い、奉納の儀を執り行ってきました。
帰依、発菩提心からはじまり7つの心の浄化、そして最後の廻向、と仏教として学ぶべきベースが網羅されたダンスですが、なんといってもその醍醐味は、自らがターラ菩薩そのものへと変容してターラに成りきり踊ることにあります。
変容、というタントリックなエネルギーのダイナミズム。それがシェアできる貴重な場をターラダンスは創りだしています。
ご案内:
9月22日、フェリシティもオーストラリアから参加してのターラの会が開かれます。
午後1時30分~5時、その後、Welcome Felicity !ターラシスターズ歓迎パーティとなります。会場は京王線府中駅隣接のビル6階和室です。あらためて、fbにご案内をシェアいたします。

チベッタン・ヒーリング―古代ボン教・五大元素の教え

チベッタン・ヒーリング―古代ボン教・五大元素の教え

  • 作者: テンジン・ワンギェルリンポチェ,Tenzin Wangyal Rinpoche,梅野泉
  • 出版社/メーカー: 地湧社
  • 発売日: 2007/08
  • メディア: 単行本
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【ポエタロ:覚和歌子】「神殿」ショートショート・エッセイ

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神社と言えば佳き場所と思い込んでいた時期があった。

願い事を持って人が集まりがちな空間は、執着の思念でケガれている場合もあるのだということが分かったのは、都内のある神社でどろっとした気配を感じてからだ。

またあるいは、なんでもない観光地(ロープウェイの駅の構内とか)に、キティちゃん神社なんかをしつらえておくと、拝んでいく人たちのご利益ください的な思念に呼ばれて、何らかの「神サマ」が居つくこともあるらしい。

狐狸とかネコとか(キティちゃんだけに)の低級動物霊でなければいいのだが。

(ポエタロガーデン 再掲)

 

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