【湧】人間の自然能力No10

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家村  この間。竹居先生のワークショップで、何かが来た時に抵抗するのではなく迎え入れるということを話されてましたよね。今のように子どもという別の生き物が体の中にいるという状態。それ自体がものすごく、迎え入れることをしていると感じます。そのことを自然な形でいろいろな角度から、教わっていますね。
 いつもは何となく自分が全部コントロールしているつもりなんですが、お腹の中に子どもが居ると自分がコントロールできない部分が体の中にもっで、逆に向こうが自分をコントロールすることもあったりして。迎え入れないと一緒にいられないという状態がずっと連続しているんです。そういう感覚が自分の中に残って、生まれてきた後もそのまま続いているような気もします。
竹居  一度インプットされたものがあれば、あとはそのまま動いていけばいいはずなのです。けれどあまりにもいろいろなものが情報となって識別の世界が私たちの中に入ってきますから、いつの間にか、またそっちに流されていくのですよね。ですから、常に}番本能的なところが鈍らないようにする努力か、今の世の中では必要でしょうね。
増田  その迎え入れるというワークショップを簡単に説明してください。
今村  あの時は、子どもたちが主になったワークショップでした。だいたい2、30人くらいがニメートルほどの間隔で横に並んで、裏山から採ってきた1メートル20センチくらいの長さに切った竹の棒を、次々に投げて受け渡しをしていくのです。その時に竹の槹を持った人は投げ渡す相手に向かって、「誰々さんいきますよ、投げますよ」と言う、それに対して相手が「はい、どうぞ」と言うのを聞いて投げるのです。相手はそれを受ける。たったそれだけのことですが、相手の「はい。どうぞ」も聞かないで「誰々さんいきますよ」と言った時にはもう手を離している大もいたりして、思ったより難しいのです。こちらの「投げますよ」。相手の「はい、どうぞ」で棒が出ていくような、そういう間合いの呼吸というのでしょうか、それは、自分が意識してそうするという感じではないんですよね。むしろ竹の槹の方が意識的に出ていくような……。
竹居  そして投げた後も、その相手が受け取るまで見ているのです。
今村  次に意識が行ってしまっている大は、相手が受け取ったことを確認せずに次の棒を渡す方に向いているのです。大と大がきちんと向かい合って、きっちり受け入れて渡していくということがいかに大切か、そしてそれを普段の生活の中でいかにしていないか、本当によくわかりました。
 そのワークに参加した大の中に、左官屋さんがいたんです。彼はその前から、中高校生だちと一緒に土間作りをしていたのです。それまで彼は、子どもたちを引っ張っていってこっちをやれ、あっちをやれと言って仕事をしていました。
 それが、竹居先生のそのワークを受けた途端、すっかり変わってしまったのです。人との関わり合い方がそれまでと全然違って、相手を拒絶するでもなく引っ張るでもない関係でありながら、その中でうまくキャッチボールができているような関わりに、そのワークを受けただけで彼は気づいたのです。
増田  それは、普段の生活では竹がなくてもそういうキャッチボールができていないといけないということですね。
(湧1997年11月・12月号再掲)Speedy McVroomによるPixabayからの画像



【ポエタロ:覚和歌子】「贈り物」ショートショート・エッセイ

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31歳、厄年であった。

失恋して同時に仕事がまったく来なくなった。

鬱っぽくなって、死ぬのだけは違う、と思いながらキツイ10ヶ月を過ごした。

その10ヶ月のうちに、これから死ぬまで何一ついいことがなくても大丈夫だ、という生きる自信のようなものを得た。

それは、今までどれだけの「贈り物」をもらってきたかということに、心の底から気づいた時だった。(ポエタロガーデン再掲)juniaqueirozによるPixabayからの画像

 

ポエタロ

ポエタロ

 

 

【湧】情けは人の為ならず

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 「情けは人の為ならず」ということわざがある。今までこれは「人のために情けをかけるのはその人のためばかりでなく、やがて自分によい報いがあるものだ」という意味だと思っていた。ところが最近、ことに若い人は「情けをかけると相手のためにならないから情けはかけない方がよい」というまったく反対の意味で使うという。そこで大勢の人に聞いてみたら結果は両方に分かれてしまう。国語辞典などははっきり前者に軍配を上げているのだが。
 さて、このことわざはいつ、誰が、本当はどんな意味を持たせて作ったのであろうか。こう考えているうちに、どうもこれは日本語で創作したにしては不自然な言葉だと疑いを持ちはじめた。それではもし、漢文であったなら何と書いたであろう。
 「情 非 人 為」と書いていたのではないだろうか。
 これを「情ハ非人為」つまり、情けは人為にあらずと読んだら、前の二とおりの解釈とはまったく別の意味になる。情けの心は始めから備わっているもので意識的にやりくりできるものではない。たとえば、ベランダから今にも落ちそうになっている幼子を見たら誰でも適否是非善悪の判断以前に助けに走る。そのことを「惻隠の情」というが、ちょうどこのことを表しているのではないだろうか。
 「情けは人の為ならず」には功利的響きがあり、こう読んでいると人の世は住みにくくなるように思えてならない。実際の生活の中のほとんどの行為は「情非人為」なのであろう。どなたか正確な由来を教えていただきたい。(MM)(月刊「湧」1989年9月号再掲)

【チベッタン・ヒーリング:梅野泉】No13_毒を美しさに、毒を薬に、という変容の驚くべきパワー。タントラ。

五大元素の感覚を取り込んで生きていると、とてつもない自由を感じるのです。そして、チベット仏教の師たちが醸し出している軽妙洒脱な雰囲気というものが、ますます近しいものとしてまるで山や谷、雲や空のように、目のまえに展開する大自然の絵巻物のように見えてきます。師たちは、人間としての顕われを持った大自然であるかのような感覚を覚えるときがあるのです。

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伊勢神宮でのターラダンス奉納

二チャン・リンポチェとの詩の掛け合で、リンポチェがお心のままにチベット語で歌をうたわれた時がそうでした。「赤い小鳥さん、赤い小鳥さん、幸せの歌をうたっておくれ、みんなが自由に空を飛べるように、森の奥で無明の闇の中で眠る子供たちのために目覚めの歌を!」と詩のなかでお願いしたところ、それを受けて,まるでその場が昔のチベットの大草原かと思わせるような歌の風を吹かせてくださったのです。あとでお聞きすると、この歌はニンマの大学者にして聖者、ジグメ・リンパの書かれた詩領で、内容は「前世よりの仏縁あってここに集うものたちよ、孔雀のように美しい羽根を広げて舞い、仏法僧に捧げん」という大変吉祥なる歌だということでした。
孔雀と聞いたとたん、わたしは、とっさに、そうか!と思いました。なぜなら、孔雀は毒を食べるからこそ、あのように美しい羽根をもつ、と言われていることをゾクチェンのマスター、ナムカイ・ノルブ・リンポチェから聞いていたからです。これは毒を美しさへと変容させる、というタントラの象徴的な意味です。つまり、タントラでは煩悩という五毒を悟りの智慧へと変容させる!五毒を五智へと変容させるのです。なぜそのようなことが可能なのか、と考えると、煩悩も悟りの智慧もその成り立ちは五大元素だから、ということに思い当たります。五大元素が乱れているか、バランスが整っているか、の違いなのです。
この歌では、「孔雀のように美しい羽根を広げて舞い」というのですから、五智を完成させ、舞うということ。その智慧を生きとし生けるものを救うために活用し、行動し、そしてすべてを仏法僧に捧げる、という大変に深い意味です。これは美しさを見せるために舞うのではない。悟っている故に,エゴはすでにないのです。自らを無きものとして舞うのです。たとえ、悟っていなくても、仏法僧に捧げるという気持ちですべてを為すとき、自分のいる場所は清らかな世界となります。
毒を薬に変容させる、という喩えは「ターラ21尊礼賛経」のなかにもあります。ターラ菩薩には21の顕現があり、それぞれの特性があるのですが、そのなかに「毒を薬に」というターラもおられるのです。ほかにも「素早く守る」ターラ、「執着を打ち砕く」ターラ、「豊かさを分け与える」ターラなど、素晴らしい資質を感じ取ることが出来ます。
ターラは女性の姿をとって悟られた特別な菩薩であることから、女性の内的資質の成長と女性性の解放を願って、ダンスを通してターラを学ぶ特別なグループがあります。
このターラダンスを日本に伝えてくれたのはオーストラリアのフェリシティという女性で、30年来の素晴らしい友人です。彼女から「ターラ21尊礼賛経」をもとにした歌の翻訳とダンスの通訳を頼まれたのが日本でのターラダンスの始まりでした。
ターラダンスは、世界中のターラダンサーによってダラムサラダライ・ラマ法王の王宮前の広場でも奉納され、カルマパ17世にも捧げられました。
日本でも大島の三原山を皮切りに、天河神社戸隠神社、そして伊勢神宮と多くの聖地を巡り、舞い、奉納の儀を執り行ってきました。
帰依、発菩提心からはじまり7つの心の浄化、そして最後の廻向、と仏教として学ぶべきベースが網羅されたダンスですが、なんといってもその醍醐味は、自らがターラ菩薩そのものへと変容してターラに成りきり踊ることにあります。
変容、というタントリックなエネルギーのダイナミズム。それがシェアできる貴重な場をターラダンスは創りだしています。
ご案内:
9月22日、フェリシティもオーストラリアから参加してのターラの会が開かれます。
午後1時30分~5時、その後、Welcome Felicity !ターラシスターズ歓迎パーティとなります。会場は京王線府中駅隣接のビル6階和室です。あらためて、fbにご案内をシェアいたします。

チベッタン・ヒーリング―古代ボン教・五大元素の教え

チベッタン・ヒーリング―古代ボン教・五大元素の教え

  • 作者: テンジン・ワンギェルリンポチェ,Tenzin Wangyal Rinpoche,梅野泉
  • 出版社/メーカー: 地湧社
  • 発売日: 2007/08
  • メディア: 単行本
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【ポエタロ:覚和歌子】「神殿」ショートショート・エッセイ

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神社と言えば佳き場所と思い込んでいた時期があった。

願い事を持って人が集まりがちな空間は、執着の思念でケガれている場合もあるのだということが分かったのは、都内のある神社でどろっとした気配を感じてからだ。

またあるいは、なんでもない観光地(ロープウェイの駅の構内とか)に、キティちゃん神社なんかをしつらえておくと、拝んでいく人たちのご利益ください的な思念に呼ばれて、何らかの「神サマ」が居つくこともあるらしい。

狐狸とかネコとか(キティちゃんだけに)の低級動物霊でなければいいのだが。

(ポエタロガーデン 再掲)

 

ポエタロ

ポエタロ

 

 

【湧】人間の自然能力No9

「人間の自然能力」と題し、特に体に焦点を当てて考えてみました。既成の概念に最も左右されがちな意識から解放された体と、直に向き合うことの体験をご紹介していきます。

〈出席者〉竹居昌子 永沢哲 今村有策 家村佳代子 増田正雄本誌f:id:jiyusha:20190803231758j:plain

竹居  そんなことないですよ。そんな物質的なつながりではありません。それは識別の世界です。だめですよ。責任逃れはできません。(笑)
 私の知っている男性で、最初の子どもがお腹に居る時には毎日帰って来て話しかけていたのが、二番目の子どもの時には気が抜けて余りしなかったら、生まれてから、本当に申し訳ないと思っていると言っています。例えば、お酒飲んでて于を当てると拒否反応が出てくるんですよ。それではっとして酔いか醒めて、それで初めて話しかける。毎日やっていればお酒も飲みますよね、そういう経験もあって知ってゆくわけです。自分の体を通して産まれ出てきたものでなくても、そういうことで、生まれる前から父親とつながっているのです。

今村  第一子の時は、毎日手を当てて話していたのです。生まれてすぐに僕がおむつを替える役をちょっとだけしたのですが、完全に生まれてすぐに泣き分けをしていまして、妻がおむつを替えにいつても、「違う、パパだ」と言って泣くのです。それでこれはきっと僕を呼んでいるんだと行くと、安心して、おむつを開けるとそこでおしっこするんです。

 よく、おむつが濡れているから気持ち惡くて泣く、と言いますよね。でも子どもは、おしっこをする前に、「出るよ」と教えるようです。僕はほとんどかなりの確率で、子どものオチンチンを押さえておしっこをさせていました。

竹居  ですから、ほとんどおむつは要らないはずなんです。

増田  お母さんが、赤ちゃんの要求を自分がおしっこをしたいように感じて、トイレに連れていくという。赤ちゃんと同体になると言いますね。

永沢  アフリカなどではおむつは使わないみたいですよね。

今村  布に入れていますからね。その布を濡らしてしまうのは、最大の恥なんだそうですよ。

竹居  すばらしいですね。それだけ気が集まっていれば、子どもにはものすごい能力が、生まれてくる前に備わりますよね。

増田  いのちといのちは同時なんですね。

竹居  そうなんです。おむつなんて、大人の都合ですからね。もっとも大事なこれ汚されては困るという布の上に寝かせておけばよいのです。そうすると少しは気を使うでしょう。ですから、日常の生活で、ちょっと雑に扱うと欠けたり何万円もするようなお茶碗とか、すばらしい名器を毎日使っていれば、少しは人間が変わってくるかもしれません。そういうことをしなければ駄目というのでは情けないですれど、たまにそういう刺激を与えるのもいいです。

 元々もっている本能というか、生命の能力の全部がお互いに助け合いながら、それをすることによって、また何かが起こるということ。ですから今、家村さんはすばらしい時にあるわけです。

(1997年11,12月号「湧」再掲)

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【湧】人間の自然能力No8

「人間の自然能力」と題し、特に体に焦点を当てて考えてみました。既成の概念に最も左右されがちな意識から解放された体と、直に向き合うことの体験をご紹介していきます。

〈出席者〉竹居昌子 永沢哲 今村有策 家村佳代子 増田正雄本誌

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永沢  今のお話との関連からいうと、野口先生の考え方で非常に大事なことは、胎児から始まる主体性を尊重するということなんです。
 子どもはある意味で選んで生まれて来ていると思います。実際に受胎したとしてもその50%は生まれて来ない訳ですけれど、その中に、淘汰の問題という言葉で表現することがうまくできないような何らかの場の構造の問題とか。生まれてくるかどうかも含めた主体性の発現があるのではないかと思うのです。
 特に、考えたいことは、人間は自然の関係を作り替えて今まで生きてきているわけで、その中には、自らの内なる自然ということも含まれます。しかし、それを抜きにして考えていった時、もともと子どもは主体的かつ創造的な人格として存在し、いろいろの選択を一瞬一瞬やっているわけです。その一瞬一瞬やっている選択の仕方そのものは、その子の責任だけれども、問題になってくるのは、僕らかおる特定の反応パターンみたいなものをもっているとすると、その反応パターンによって歪められたコミュニケーションの様式によって、子どもと応対していくようになるということがあると思う
のです。そして、そのことによって僕らは、その特定の反応パターンを子どもの世代に継続させてしまう可能性が大きいということです。
 そういう意味において、子どもの人格、主体性をどう尊重するかか、非常に大切になっている。もちろんそれは、その子のもっている力とか意志の問題にかかわっているわけで、そういう歪みをはね返していく力も、主体性や人間の自然ということの中に含まれています。子どもがそれを受け止めながら、自分の力を十全に発揮できるかということが、すごく大事な問題ではないかと。僕は思っているのです。

竹居  それが野口先生に言わせると一言で、天心という言葉が出てくる。

 天心に近い状態になるにはどうしたらよいか、例えば呼吸法とか具体的に教えられますが、それは個人的なものから抜け出し、我欲から離れて何もないところ、生まれた時の心、これを先生は天心と呼んでいます。それは意識以前の問題ですよね。それを私たちが感じ取れるかどうかということです。

 お腹の中に居る時も、赤ちゃんは自分で生命を維持していくために、都合の悪いことがあるとシグナルを出します。それがわかるようになると、赤ちゃんと対話ができるわけです。姿勢が惡かったのかとか。今のはやめてと言っているから、やめようとか、もう食べないでというシグナルで、もう食べないとか、そういうことはいろいろな知識や意識があると、汲み取れないのです。ポカンとしていれば「ああ、そうか」とわかるけれど、勉強していろいろなものが意識に詰め込まれて固定観念が入っていると、それが聞き取れなくなっているわけです。
 もともとあるその能力が感じられて、それで動けるようにと活元運動があるのですが、楽になるように楽になるように動くというのでは、それは意識運動です。それは識別の世界の運動です。でもそうやってふらふらちんたらやっているうちに、時に体はふっと本当の動きというのを出してきて30年やって初めて活元運動というものは、こういうものかとむかったというような、そういうものが必ず出てくるのです。
 人間の運動系には二種類あって。体路系と錐体外路系の運動に分けられると言います。錐体路系の運動は意識して動かすことができる系統のもの、外路系の運動は、無意識で動く運動、即ち、意志で行う運動ではないということです。あくびとかくしゃみもそのたぐいですし、寝枢も同じだと野口先生は説いておられます。この外路系の運動が生命を保つ上で重要な役割をしていて、それが大部分を占め、意識して勁かすことができる部分はごく一部だと言えます。手を当てて行う愉気も、活元運動の延長線上にある
ものと考えてよいと思います。生命か持っている自然な営みが発揮されるように活元運動や愉気をするのです。
 生命というものは、気が集まっていなければ育たない状態にあるらしいですから、赤ちゃんの問題というのは、固定観念に縛られてさえいなければ。そのシグナルにすぐ反応するような、非常に確かなコミュニケーションというものがもたれて、親の気が抜けていると、赤ちゃんか存在を示すようなシグナルを送ってくるのです。それを。何だろう、この子いやに暴れると言ってそこに気を集めない、あまり暴れるとお医者さんに行くような親が多い。見当外れですよ。
 ここにいるよと、存在を示す動きで、ごめんなさいね、といって話しかけるよ
うにする中で、刻々と教えられる事が多いわけです。ですから。他のことに気を
とられていなければ、お腹に赤ちゃんが居る時が、女性が一番成長する時なんで
す。命が育まれるということを自分の体で体験して、「人聞て、なんてすばらし
いのか」という感じが出てくるはずなんです。それがずっと続くわけでしよ?

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