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【コウ】スピリチュアルと知性主義_15

ヒンズー教における修行文化の6つの特徴をまとめようと書き始めましたが、十分に説明するには、各特徴の説明だけでブログ一回分以上の長さになると気が付きました。一般的な意味合いの「宗教」とは異なるダイナミクスがヒンズー教にはあるため、背景の補足や全体的な枠組みの提示がなされなければなりません。インドの人々もヒンズー教を「宗教」ではなく「ライフスタイル」と呼んでいたりします。「ライフスタイル」というと軽すぎますが、「人生設計図」もしくは「人生改良法」あたりがちょうどよさそうです。とにかく、書き始めてしまった以上、6つの特徴の残り3つをまとめてみます。

 

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分散型の宗教

ヒンズー教には中央集権的な組織構造がなく、異なる宗派間の対立や衝突がありません。キリスト教におけるイエス・キリスト、仏教における仏陀、イスラム教におけるムハンマドのような存在が、ヒンズー教にはないことが大きな理由でしょう。1人の救世主、悟達者、預言者を中心にしてできる宗教は、残された言葉の解釈や修行の正統性をめぐり、常にどこかで争いが起きるものです。カトリックとプロテスタントの対立、仏教における無数の宗派、イスラム教の中での武装派など、争いはときには宗教を超えて社会にも害をもたらします。ヒンズー教のように救世主、悟達者、預言者がヒエラルキーなしに多数いる場合、組織的宗教の弊害は最小化されるようです。また、中央集権の欠如は、教えの風化を防ぐ効果もあります。卓越した修行者や預言者が現れるたびに、この人たちが異端として抑圧されることなしに、そのときの世界に適した教えや修行法を伝えることができます。そして、人々も新しいものをオープンに受け入れる態度を持っています。

 

万人に開けた修行文化

修行というと出家をして、山に籠もり、滝行をして…。というイメージが連想されます。頭を丸めて僧侶にならなければ、悟りのための修行は与えられないもの。こういう理解が仏教的な日本では一般的です。実際、禅仏教は別だとしても、ほとんどの仏教の宗派では在家と出家の間の壁が高く、修行は門外不出だという伝統があります。

 

ヒンズー教は驚くほど一般人にも門戸を広げています。ヒンズー教の最も重要な聖典であるバガヴァッド・ギータでは、俗世にありながらも、蓮の花のように空に向けて花を咲かせる生き方が理想だとされます。このためもあり、ヒンズー教は、出家をして山に籠もるフルタイム修行者の修行だけではなく、世に生きる人々が自由になるための方法を伝えます。マントラを唱える、瞑想をする、などの比較的シンプルな修行から、在家でありながら悟りを目指すディープな修行まで、たくさんのインド人が日常生活に修行を取り入れています。修行というと語弊があるようなカジュアルさです。最も深い教えが在家にも開かれていることは、この物質主義の世の中でインドの人々がいまだにヒンズー教を求める、大きな理由の一つでしょう。

 

この修行文化の浸透には経済的に重要な役割もあります。仏教や他の宗教と違い、修道院や僧院などの宗教組織は、ヒンズー教にはあまり馴染みがありません。卓越した個人の修行者や預言者の周りにぶわーっとハチが集まるかのように人々が集まり、人物が他界した後には、また同じように去っていきます。また、修行は個人ベースであるため、修道院や僧院のような集団生活と合わないというのもあります。上に書いたように組織的宗教の弊害を防ぐ利点はあるものの、繰り返される宗教組織の盛衰は、修行者の生活の不安定さも意味します。

 

修行が広く一般の人々にも浸透している文化は、ここで重要になります。修行者の周りに集まる在家の人々は、修行法を伝授してもらったり、相談に乗ってもらったり、経典の解釈を聞いたりして、この対価に寄付をします。この自然な集まりが大きくなると、アシュラムという修行場のような施設ができたり、財団になったり、そのうちに活動を国内から国外に広げたりということもあります。このようにして修行者とその文化を支えるエコシステムが、出家者と在家者のゆるやかな繋がりによって持続されます。

神秘主義的な教え、合理的な修行法

ヒンズー教の最も深い教えは神秘主義的です。つまり、感覚を通して経験される通常の世界とは別の、超越的な存在と真理を説いています。当然ながら、時間と空間を超える世界の話になるので、この超越的な真理は言語や概念を用いて表すことはできません。このためにヒンズー教の修行は、個人の体験を教えの中心に置いています。では、文字で書かれている聖典の役割は何なのか?修行的な観点から言えば、一般的な知性の限界を示すことが、ウパニシャッド聖典やバガヴァッド・ギータの役割だとされています。知性の限界がわかった後は、個人が自らの修行を通して体験しなければなりません。

 

神秘主義的な教えの一方、こと修業に関しては、体系的、また科学的でさえあります。各個人またステップ毎に必要な修行が定められており、どのような状態に至れば、次の段階に進めるのかというのも明確です。これらのステップがなぜ存在して、どのような理屈のもとに段階が設けられているのかということも、ヨガ哲学によって説明されます。ヨガ哲学は何千年も前に生まれたにも関わらず、現代の認知哲学や神経科学の知識と見比べてみても、そこまで見劣ることがありません。修行のハシゴを段々に登ることで、知性を無理に抑圧することなく、教えの説く神秘主義的な段階に至ることができます。これが現代人にヨガや瞑想が人気である理由の一つだと言えるでしょう。

(文責と画像はコウによる)

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【湧】人間の自然能力_No2

 ”自分”なるものがいかに社会の通念や価値観、知識や情報によってがんじがらめになっているかということ、そしてそこから自由になった本来の自然な自分を取り戻すことによってしか、人間の再生、地球の再生はあり得ないのではないかということでした。

 「湧」では、この二つをつなぐものとして「人間の自然能力」と題し、特に体に焦点を当てて考えてみました。既成の概念に最も左右されがちな意識から解放された体と、直に向き合うことをされてきた方々の体験をご紹介していきます。

〈出席者〉竹居昌子 永沢哲 今村有策 家村佳代子 増田正雄本誌

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永沢  一方愉気というのは。気功法でいう外気功に当たります。手のひらから気を相手に送ることと普通考えられますが、野口氏は〈感応〉ということを強調しています。ほがらかな気が送られることによって、相手の中の同質の気が目覚めるのであって、やればやるだけその力は強まるし。本物の愉気が行われるときには、自と他という境界はくずれおちるのです。

 活元運動も愉気も合理的思考ではうまく扱えないものです。率直に言って、僕はそういうことは全く信じていなかったのですが、インドから帰ってきて、人間は「何でもあり」だから、この際、やってみようかという感じで始めた。それが僕と整体との出会いです。

 僕はその後、チベット仏教にかかわるようになって。整体のことについては、しばらくあまり触れたくないと思っていました。どうしてかと言いますと、ある心の状態とか身体的な状態になっていくには、いろいろな道筋あるいはシステムがあると思うのですが、それをあまりゴチャゴチャに交ぜてしまうと、混乱が生じるのではないかという恐れを抱いていて、野口螫体のような身体的な方向からのアプローチとチベット仏教をいっしょにすると、混乱してしまう感じがあったのです。それでしばらくは整体のことは考えずにいたのですけれど、ただあまりに体がしんどい時には、電車の中で人目もかまわず、活元運動をするという感じでした。

 その後しばらくしてから、自分がチベット仏教で勉強していることと、その前に野口整体を少しかじってみたという事の間に接点、繋がりが見えてきて、そういう仕事をしてもかまわないかなという感じがしてきたものですから、少し野口整体について書くようになったのです。
 野口先生については、何とも言いようがなくて。これは天才というのもむだという感じがするわけです。実際活元運動や愉気というのは整体の全体の中では本当に入り囗に過ぎないと思うのですけれど、それをやっていくと、想像もしなかったような変化が心身に起こってくるし、それによって、人間の在り方とか生き方とか人間同士の関係の仕方がきれいに変わっていくような感じがあると思うのです。

(「湧」1997年11月号 再掲)Karin HenselerによるPixabayからの画像

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