【湧】人間の自然能力No18

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竹居  栄養学というのが入っていると恐ろしいですね。栄養が足りないと思っただけで死にますよ。
 私は二年間2日に1回小さな煎餅を喘っているだけで生きていました。水は飲みましだけれど。食べたくないのです。その時期に食べていたら、私はたぶん脳がだめになっていたと思います。それで一日20時間動きっぱなしで、危ないなと思うとスケジュールをもっと苛酷にもっとぎりぎりに増やしました。それで生き延びたという実証を自分の体でしていますから。食べたくないなら食べなくても大丈夫ですと平気で言える。
 それを、食べなかったら死ぬと患うと死んでしまうのです。食わないと食えないは大違いで、食わないは死なないけれど、食えないとなったら死にますよ。それで動ていく命の儚さもあるわけです。喉が渇いたられたらツバを飲め、トイレがなかったら汗にしろ、塩気がなくなれば自分をなめろ、と先生がおっしゃっています。そう思うと本当に汗が出るのです。喘息で苦しい人には息するなと言います。鼻と囗を本当につまんでしまう。そうすると体の中が呼吸し始めますから。いよいよ苦しいという時にちょっと離して、その時に吐いてくる人は早く治るのです。その時に吸う人は、空気を吸わなければ死ぬという観念が入っていますから、時間がかかります。
 疑わないで、いろいろなことを考えないで、知識に惑わされないでいると、結構生き延びるものです。そのためには、いろいろなものを落としていかなければならないと思いますね。(完)
(1997年11,12月号「湧」再掲)

【紅露工房便り】最終回 ~西表島より~

こんにちは。

 

気づけば夏のピークも過ぎ、朝夕はだいぶ過ごしやすくなりました。なんだか急に陽も短くなったように感じ夏の終わりが近づいていることを実感しています。

 

まだまだ残暑は続きそうですが、そんな中工房では何度か準備過程を紹介している布を織り進めています。

 

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均等に張った絹の経糸に、芭蕉緯糸を織り込んでいます。

使用している芭蕉糸は工房で作ったもの。糸は芭蕉の幹から取りますが、幹の内側と外側でも取れる糸の質が違い、今回の布は何種類かの太さを交えてランダムにしています。

糸が切れたり絡まることもありますが、どんなに細い糸も作る過程を想うとどうしてもいとしさが湧いて来て、大切に丁寧に扱わざるおえません。

 

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完成までもう少し、コツコツ織る毎日が続きそうです。

 

  

さて、突然ではありますが、地湧社ブログ内での紅露工房便りは今回の第20回目を持ちまして終了となります。

引き続き、紅露工房の様子はFacebookページ投稿にてご覧いただけますのでご興味ある方はぜひ覗いてみてください。

https://www.facebook.com/kuurukoubou/

 

5ヶ月間のご愛読、ありがとうございました!

【湧】意識のつながり

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 今年の世界の変わりようは激しかった。東西ベルリンの壁が突如として取り除かれたことに、世界中の人が度胆を抜かれた。また、南アフリカでは、初めての選挙が行われ黒人側が多数を確保するなど、地球上人間の住むいたる所が急変している。
 筆者もこのところ、海外に出掛けることが多かったので、行く先々で社会的な激動を体験した。北京には天安門事件の直前直後に訪れ、リトアニアでは独立運動の熱気が噴出していたし、アメリカインディアンを訪ねた時は、折しもローマ法王が過去のインディアンへの偏見政策を詫びるため訪米していたり、ペルーでもゲリラ活動によって旅行予定が変更されるなど、先々で思いもかけない社会変動に出会った。このような歴史の変化に人々の意識がついて行けるのかと心配になるほどだ。
 こんな話を聞いたことがある。過去に芸術や科学における創造発見で大きな変革が起きた時、遠く離れた所でお互いには何の連絡も脈絡も無いはずなのに、同時期に類似の変化を起こしていたという。地球を一つの意識体であるとみなす発想からすれば、当然なのかもしれない。
 近ごろ人間と地球や宇宙を一つの連続意識体と考えざるを得ない現象が多い。とすれば社会現象の変化と同時に、われわれ個体の意識も二重奏のように同時進行で変容が起こっていても不思議はない。いま経済、社会学者は根本的なところで法則が見失われ、とまどっているというが、世界で起こっている現象を見るよりも自分の内面をじっくり味わってみる方が早くて正確にとらえられる時代かも知れない。「湧」の来年のテーマは「自分になる」となった。(MM)(月刊「湧」1989年12月号再掲)

【チベッタン・ヒーリング:梅野泉】No16_父の世界、母の世界、これからの私の世界。すべて夢だとしても、生き直すことを選ぼう。

人生の後半を考えるとき、私たちは生まれ育った文化的な土壌から何を得、何を捨てる、か、を問うとよい。どう生き直すか、である。結局のところ、五大元素のバランスをどう意識しているか、に尽きる。その軸が決まれば、おのずと生き方は決まってくる。
はやい話、私は、22歳で親と親にまつわる社会を捨てようとした。当時は、チベットや仏教とも無縁。今よりさらに無知で、頼るところは自分の幼く危うい感性だけであった。
いまから思えば、既存の社会に反発する怒りの「火」と生きていることの哀しみを抱えた「水」、物憂く重い「土」を、自分を奮い立たせるために気持ちを恋に駆り立てることで「風」を起こして吹き飛ばそうとしていた。感性にだけ頼ることがどんなに危険なコトであろうとも、目の前の波はなんとかして乗り切るしかなかった。生田春月、芥川龍之介太宰治パスカルなど自殺した芸術家の死に至る経緯を念入りに調べ、シュルレアリズムの運動や、マルドロールの歌、実存主義ル・クレジオにも憧れる半端な学生時代を焦りと不安の中で過ごした。そして夏の、草いきれ清泉寮の合宿で知り合った人と卒業を前にさっさと結婚した。その人は身体的な障害があり、有名人の私生児でもあったことからか、父は猛烈に反対した。

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カルカッタ時代の父

父親は当時外国為替専門の銀行員で、家父長制のシッポを引きずっていた。母は、非凡なほどのおおらかさと洞察力、さらにはあきらめの精神が同居する人で、自分のことを事あるごとに「私は鬼です」と語った。そしてこの結婚のことを「無自覚であったゆえの宿命」と受け止める才能にも恵まれていた。そのうえ、父に「出世してはいけません、人間が堕落します」、と言い続けていた。

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父と母の後ろ姿

父は私が生まれて間もなくカルカッタに単身赴任となった。そこで文化人類学者の中根千枝さんのインドでのリサーチに協力することになり、帰国後も親交があった。神戸の女子校から東京の大学に入学することが決まると、中根さんは父を通して、内に下宿しないか、と言ってきて下さった。学問の世界を垣間見ることや、中根さんのご母堂の話し相手をさせてもらえることはこの上なく喜ばしいことに思えたが、父の世界から逃れていたいだけの理由で、大学の女子寮を選んだ。この時、私はチャレンジに向かう「風」の軽さと「火」の創造性を拒んでいたのだ。
父は98歳で亡くなった。両親の暮らしがどうにも2人だけではたちゆかなくなり、他に選択の余地がなく、私は両親の介護のために生活を共にした。それまでの長い年月、私は自分の道を探そうとサムサーラという大海を泳ぎながら、遠慮がちに両親と付き合ってはいたが・・・もうすっかり人生の苦さを知った年となり、認知症の父と、骨折から肺に水がたまるまでに症状が悪化した母と10年間24時間、彼らの晩年の一瞬一瞬をこの胸に移し込んで収めるかのようにして暮らすことが出来た。
それは胸に巻き込んで収めた10年分のフィルム映像だ。悲劇と喜劇がないまぜになった極彩色とモノトーンが入れ代わり立ち代わりあらわれる、地獄の日々と極楽が隣り合わせの記録だ。
父は認知症の兆候が出始めてから、自分を語るようになったのではないか、と私には思えた。そして、こう言ったのだ。「銀行には入りたくなかった。語学や美術がやりたかった」と。若い頃、バスケットボールのキャプテンだった話もよく聞かせてくれた。いまでいう国体に出た時の話、実に楽しげだった。
死の3か月前ほどからは、こっちが膝を打つような面白い言葉をたくさん聞いた。懐かしい船場弁があふれ出ていた。
「お迎えが来るんとちゃう、行くんや、こっちから、行くんや」と明るい顔で力強く前方へと手を伸ばして言っていた。まるで、死を、こちらから捕まえに行くようなしぐさだった。そのしぐさを、私はもう一度見た。もうすぐにでも息を引き取ろうとしている父を私は息を凝らして見守っていた。その時だ、父は、ベッドに横たわる全身体から力を振り絞るように手を高く掲げ伸ばし、空中で何かを掴もうとしていたのだ。「こっちから行くんや」といわんばかりに。それが、最期の動きだった。
夢のごとく、とはよく言われるセリフではあるが、両親の介護と看取りを通して、この生が夢以外の何物でもないことをはっきりと見た。五大元素の認識は人生の質を、つまりは、この夢の質を時空を超えるほどに高めてくれる。あなたもダキニ、私もダキニ、なのだ。(意味不明な方は、NO14をお読みください)
そのことをまた改めて書きたいと思うが、残念ながら、このブログは出版社の事情で今回で終わることとなった。最後までご愛読いただいた皆様、ありがとうございました。ご感想など寄せていただければ嬉しいです。地湧社の増田さん、ブログ担当のBMさんには大変お世話になりました。パソコンが苦手の私がブログなど書くことになるとは思いもよらないことでしたが、この機会をいただけましたことに心より感謝します。

 

チベッタン・ヒーリング―古代ボン教・五大元素の教え

チベッタン・ヒーリング―古代ボン教・五大元素の教え

  • 作者: テンジン・ワンギェルリンポチェ,Tenzin Wangyal Rinpoche,梅野泉
  • 出版社/メーカー: 地湧社
  • 発売日: 2007/08
  • メディア: 単行本
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【ポエタロ:覚和歌子】「電波」ショートショート・エッセイ

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これを書いている今、地球の裏側のリオデジャネイロで熱く催されているオリンピック。

電波のおかげでリアルタイムで観戦できる。

って、昭和の人みたいだが、みたいじゃなくてまぎれもなく昭和の人だった、私。

ときどき忘れる。

それにつけても2020年である。かねてから私は東京オリンピックを憂いている。

東京の8月の酷暑にアスリートを連れてきて身体を壊させたいのか。いい記録を出させたくないのか。

交通を混乱させて、お祭り騒ぎを隠れ蓑に都民の日常生活を妨害したいのか。

いっときカンフル剤のように経済を活性化させても、すぐにまた落ち込むというお定まりを肝に銘じてないのか。

(ポエタロガーデン再掲)

【湧】人間の自然能力No17

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増田  鳶職の人は、必ず一生に一度や二度は高いところから落ちることがあるそうです。その時に、落ちると思ったら死ぬ。飛び降りてしまうのだそうです。そうすると、ヶガはするけれど命は残る

竹居  迎え入れるのでしょうね。
今村  その切り替えができるかどうか。
竹居  やっぱり死ぬ人は淘汰される人なんです。
永沢  ここが野口整体の何とも言えない野蛮なところです。(笑)何かあると、すぐに淘汰されると言っておしまいにする。仏教と言うのにためらわれるところですね。けれども、仏教でも宇宙の理法にしたがうものは栄え、そうでないものは滅ぶというわけで、「淘汰」という野蛮な表現を通じて野口整体が言わんとしていることは、仏教からそれほど遠くないのかもしれません。
竹居  結局、そういう種を残してもしょうがないという自然界の掟です。

永沢  野口先生は、自然は本物になることを求めているという風におっしやいますね。
竹居  自分を見つめるということは、自然は何かということを追求する一生と言ってもよいくらいです。今は自分の自然をわからないのですよ。本当に何を食べたいのか、という事まで。今、これかおるから食べているけれど、本当に食べたいのかといったら、分からない。そういう時は、10日くらい絶食してみると、分かる。あれが食べたいというのか出て来ますから。それのレベルで食べているかどうか、一度やってみると分かる。

永沢  自然の中に、そういう本物になっていこうという傾向性というか、力みたいなものがあって、それがいつも働いているんだということですよね。
竹居  そうですね。それが欲求、内なる欲求なんです。それを誤解して、感覚的なものを内なる要求だと思っている人がいるのですよ。
増田  断食した後では、何か食べなければというなんとなく働いている意識が
なくなりますね。食べたくはなるけれど、食べなきやという意識がなくなる。

(1997年11,12月号「湧」再掲)

【湧】人間の自然能力No16

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今村  以前竹居先生にワークショップに来ていただいたのは、丹沢の農家を改装した寮なのですが、本来なら泊まるのはだいたい50人位が適正規模なんです。そこに、その時は百人来ました。百人いたら、受け入れ側は。これは大パニックになるに違いないと思ったのですが。実際にワークをやると、あれ、30人位かな? という感じ。いろいろなところでべたべたべた纏わりついていないで、生活の中に透き間があるんです。天と天との間に、風が通る。
 竹居先生が今のような内容のお話をすると、それが全部参加者の生活の中に流れていって、そうなった時、いっぱいすき間ができていたんです。
竹居  それは言葉一つが体に入って、インプットされると、自動的に体が変わって出てくるということです。私かやっているのではなくて、みなそれぞれ自分の体がそうやっているのです。
 1番変わっだのは、その辺でわあわあ遊んでいた子どもたちですね。途端にさっと変わって、暴れていてもうるさくなく邪魔にならない。
今村  人間のいる空間というのは、物理的な広さ狭さというものではないのですね。
増田  私は、熱気球に乗るのです。気球は、ビルの七階くらいの高さの大きな風船で、これをバーナーで火を焚いたり止めたりして上下させるだけで、後は風任せです。大きな物ですから、点火してから反応が出るまでの時間が長くて。うっかりしているとパワーを失って落ちてしまいます。 ところが慣れてくると、気球が自分と同じ体になって、気球がパワーを失うというのが事前にわかるのか、同時にわかるのか、動きを見ていていてバーナーに点火するのではなく、なんとなく自然に自分がひもじいからバーナーを焚く。本能なのです。あれだけ大きいものが自分の体の一部になってしまうんですね。
竹居  それか、感応というんですね。

増田  ある競技では様子を見るために気球をしばらく空中に留めておかなければならない時があるのですが、それは、流れの方向の異なる風と風の境界線上に留めておくということで、そんなこと神様しかできないと思うわけです。ところがどうしてなのか自分でもわからないんですが、その境界線で止まっていることがあるんです。
竹居  もともと人間存在そのものが神業ですから。人間らしくなっていれば神業は実現するんです。
 野口先生が柿の木から落ちた話があるでしょう。落ちる瞬間のことが「あの枝は太い、あの枝は細すぎる。よし、あの枝に捕まろう」と書いてある。見ていれば本当に一瞬なのに、その間にこれだけのことを見極めておられる。それは、臨死体験するとわかるのではないかと思うのですが、瞬間的にすごい速さで全部見えるのですね。私自身も汽車から落ちて、その落ちる瞬間に私の一生か全部見えましたからわかります。ですから、枝くらい選べると思いますよ。
 命の瀬戸際というのは、どんなぼんくらでも集中するのです。だから危ない目に遭う必要があると思いますね。その時に人間の原点に戻るというか、本能に目覚めるんです。
(1997年11,12月号「湧」再掲)