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【湧】人間の自然能力No16

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今村  以前竹居先生にワークショップに来ていただいたのは、丹沢の農家を改装した寮なのですが、本来なら泊まるのはだいたい50人位が適正規模なんです。そこに、その時は百人来ました。百人いたら、受け入れ側は。これは大パニックになるに違いないと思ったのですが。実際にワークをやると、あれ、30人位かな? という感じ。いろいろなところでべたべたべた纏わりついていないで、生活の中に透き間があるんです。天と天との間に、風が通る。
 竹居先生が今のような内容のお話をすると、それが全部参加者の生活の中に流れていって、そうなった時、いっぱいすき間ができていたんです。
竹居  それは言葉一つが体に入って、インプットされると、自動的に体が変わって出てくるということです。私かやっているのではなくて、みなそれぞれ自分の体がそうやっているのです。
 1番変わっだのは、その辺でわあわあ遊んでいた子どもたちですね。途端にさっと変わって、暴れていてもうるさくなく邪魔にならない。
今村  人間のいる空間というのは、物理的な広さ狭さというものではないのですね。
増田  私は、熱気球に乗るのです。気球は、ビルの七階くらいの高さの大きな風船で、これをバーナーで火を焚いたり止めたりして上下させるだけで、後は風任せです。大きな物ですから、点火してから反応が出るまでの時間が長くて。うっかりしているとパワーを失って落ちてしまいます。 ところが慣れてくると、気球が自分と同じ体になって、気球がパワーを失うというのが事前にわかるのか、同時にわかるのか、動きを見ていていてバーナーに点火するのではなく、なんとなく自然に自分がひもじいからバーナーを焚く。本能なのです。あれだけ大きいものが自分の体の一部になってしまうんですね。
竹居  それか、感応というんですね。

増田  ある競技では様子を見るために気球をしばらく空中に留めておかなければならない時があるのですが、それは、流れの方向の異なる風と風の境界線上に留めておくということで、そんなこと神様しかできないと思うわけです。ところがどうしてなのか自分でもわからないんですが、その境界線で止まっていることがあるんです。
竹居  もともと人間存在そのものが神業ですから。人間らしくなっていれば神業は実現するんです。
 野口先生が柿の木から落ちた話があるでしょう。落ちる瞬間のことが「あの枝は太い、あの枝は細すぎる。よし、あの枝に捕まろう」と書いてある。見ていれば本当に一瞬なのに、その間にこれだけのことを見極めておられる。それは、臨死体験するとわかるのではないかと思うのですが、瞬間的にすごい速さで全部見えるのですね。私自身も汽車から落ちて、その落ちる瞬間に私の一生か全部見えましたからわかります。ですから、枝くらい選べると思いますよ。
 命の瀬戸際というのは、どんなぼんくらでも集中するのです。だから危ない目に遭う必要があると思いますね。その時に人間の原点に戻るというか、本能に目覚めるんです。
(1997年11,12月号「湧」再掲)


【湧】人間の自然能力No15

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今村  その音で体の開く部分、あるいは体の開き方が違うという視点から見た時、先程のアイウエオとつながる体という話でもありましたけど、それを知った時初めて、僕は五重の塔の意味、どうしてあの姿をしているのかということがわかったような気がしました。自分で音を出していった時に、ああ、そういう世界を現しているのだなとわかったんです。そうすると、五重の塔でもピラミッドでも、古くから残って大事にされている建物の別な意味が見えてくると思いました。
竹居  その塔を見ているだけで、自分の体が整ってくる。そういうものが、名作と言えるのでしょうね。それは難しいことではない、自分の体に聞けばいいのです。自分の体にもともと整った状態があるのですから。どこかが歪んでいたり。どこかが硬くなっていたり、どこかが欠けていてもだめなんです。そういう時は。その欠けたところをじっと見ていれば自然に潸ちてくる。生命にはそれだけすばらしい力がある。それを信じて従うということをしないでいろいろな知識に惑わされてしまうので、自分を見失ってしまうのです。
 例えば、月を迎え入れるというのは、割合簡単なんですよ。月の光を自分の体に浴びると思えばいいのです。腋の下から指の間まで、月の光を自分の全身に浴びようと思って見ていると、光の当からないところが見えてくる。例えば耳の裏が当たらない、足の裏が当たらない、髪の毛一本一本に当たっていない、と光が当たらないところを見ているとさっと当たってくる。そうするうちに全部当たるのです。全身に当たるようになった時、鴟尾がパッと開く。やっているうちにもう眉間がむずむずします。鏡を見たら、
びっくりしますよ。眉間がニセンチだった人が、五センチも空いてしまう。それが愁眉を開くということなんです。

 そういうことを一回体験しただけでも違うんですよ。例えば竹を見る、雨を見るということでもわかります。空気は見えないし、あまりにも慣れてしまっているから抵抗も感じませんけれど、空気も自分の生命にとっては他者なんです。水と同じです。水の中を歩く時には抵抗があるでしょう。それと同じに空気にもあるのです。

 

増田  以前に断食をしていて、気づいたことがあるんです。断食をした後、東京駅を歩いたんです。いつもと同じに混んでいて、普段でしたら人の波を避けながら通るのに、その時は、阻むものがなく、すっすっとまるで自分の前が空いていく感じでした。逆に訓子の悪い時には、すべて邪魔でぶつかるように感じます。

竹居  たぶんそれは体の気が円の気になって、空聞か広くなっていたのでしょう。円の気というのは、親指にうながっていまして、親指を触ると体の中から頭も首も腕も指も膨らむんです。あるところまでそれが広かって気が動くと、腰椎の四番が見えてくる。断食した時には、そういう状態になっていたと思います。

 五本の指全部が受け持って、それが世界を広くする。指か自由であれば、自分の生存空間というものは限りなく広かってくるのです。

 ですから仕事で手を使うことによって。その空間が広くならなければいけない。永沢さんは「動作が命を助けたり」と書いておられましたよね。それは自分の手をどう使うかによって。自分の生存空間が前後にも左右にもそして高さにも全部にわたって広かってくる。そうするといつも自由で、楽なのです。いわゆる自分の世界が広くなるということです。

 ところが、間違った使い方をするとどんどん狭くなる。それが疲れや、どこかか惡くなるということにつながってくる。

 一挙手一投足が命を左右すると野口先生かおっしやった、まさにその通りなのです。

(1997年11,12月号「湧」再掲)